言葉にならぬ人の声の崇高さ。
まさに天から降り注ぐシャワー。
ヘンリー8世の時代、国家と宗教の問題があからさまになってゆく大英帝国において、トマス・モアはあくまでローマン・カトリックへの強い信仰をもっていたといわれる。しかしながら、1516年に上梓された彼の「ユートピア」を読む限りにおいて、彼の思想にある正統性が宗教とは別次元のもので、それこそ人類愛というものに基づいたものであったのではないかと僕には思われてならない。
自然の瞑想とその瞑想から生ずる讃美は、神の最も喜び給うところのものであると彼らは考える。しかしただ一途に信仰の問題に没頭し、その結果学問に対して関心を持たず、俗的な事物の知識を殆んど問題にしない、といった人々もユートピアにはかなり多い。かといって怠惰な生活を好むのではなく、むしろ死後の祝福は生前の勤勉とよき行いによってえられるものであると信じ、怠惰な生活をあくまで嫌悪し拒否している。したがってある者は病人の看護をし、ある者は国道を修理し、溝を掃除し、橋を修繕し、泥炭・砂利・石を掘り、木をきり倒し、木材・食糧その他を馬車で都市に運ぶなど、単に公共事業に奉仕するばかりでなく、召使として個人的な労働にも服しそれこそ奴隷以上に働くのである。もしどこかに不愉快で困難で嫌な仕事でもあれば、たとえそれが他の人を辟易させるような絶望的な骨の折れるものであっても、彼らは喜んでこれを引受ける。慰安と休息はすべて他の人にまかせ、自分たちは一瞬の休みもなくただ営々と働く。そしてそのため他人を咎めることもない。つまり他人の生活を非難しないとともに、また自分たちの生活を自慢することもしないのだ。
~トマス・モア著/平井正穂訳「ユートピア」(岩波文庫)P166
自分に厳しく、他人には優しくという信念。そして、その際、他者の課題は切り離すという、まるでアルフレッド・アドラーの思想の先取り。見事である。
ここからは僕の空想。
同時期に英国国教会で活躍したジョン・タヴァナーは、カトリックとプロテスタントの間を揺れながらも、都度状況にあわせ、教会のための音楽を創造した。いわば彼にとって宗派争いはとるに足らない些末な出来事だったのかもしれぬ。あるいは、そういう枠を越え、「人を愛する」という意味で、形は何でも良かったのかもしれぬ。
至純の無伴奏合唱。
ジョン・タヴァナー:宗教合唱作品集
・安息日が終わったのでⅠ
・ルロイ・キリエ(王のキリエ)
・ミサ・コロナ・スピネア(いばらの冠のミサ)
・安息日が終わったのでⅡ
・乙女らは王の御前に導かれ
ダンカン・ファーガソン指揮エジンバラ・セント・メアリー大聖堂聖歌隊(2009.9.14-17録音)
「グロリア」「クレド」「サンクトゥス」「アニュス・デイ」からなる「いばらの冠のミサ」のハーモニーのあまりの美しさに打ちひしがれる。ここでの歌詞は確かにラテン語だ。しかし、(言葉の枠を超えた)音楽の魔法は筆舌に尽くし難い。しばし大音量でこの音楽にすべてを委ねると、自ずと身も心も安らかとなる。
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>天から降
>り注ぐシャワー。
>教会のための音楽を創造した。いわば彼にとって宗派争いはとるに足らない些末な出来事
今までの流れから、岡本様が今回のようなご意見をおっしゃることには、一々全部納得です。
おそらく「当たらずと雖も遠からず」でしょうね(笑)。 ご紹介の曲、聴いてみます!
>雅之様
ありがとうございます。
もはや雅之さんには敵いません。(笑)
是非聴いてみてください。