カイヤ・サーリアホの音楽―オペラ「遥かなる愛」(演奏会形式)

saariaho_20150528216カイヤ・サーリアホの歌劇「遥かなる愛」(演奏会形式・本邦初演)を聴いた。
言葉使いのトルバドゥール、ブライユ領主ジョフレ・リュデルを主人公のひとりにしたのがミソ。愛というものはやはり言語化できないことを暗示する。そもそもトリポリ女伯クレマンスのパッショネートな感覚とリュデルのあまりに堅固な思考のギャップは最後まで埋まらなかったよう(?)。とはいえ、遥かなる愛をもってしても結ばれ得ない関係だったのかといえば、そうではない。愛、すなわち神はそもそも内なるものであり、それゆえお願いをする対象ではないのである。各々に既に備わっているすべてに最初から感謝できず、2人がひとつになれないことへの不満、愚痴(?)を口にしたことが問題(それゆえに物語として成立し得るのだけれど)。
人間というのは真に愚かだ。しかし、それがまたカルマを背負う人間の形なのである。
それにしても、永遠なる愛というものをリュデルもクレマンスも物語上は体得できなかったように思われるが(東洋と西洋は決して融和し得ぬのか?)、クレマンスの祈りは、サーリアホの言語を超えた音楽によって成就されたよう。静かに消えゆく音楽を聴いてそんなことを考えた。

コンポージアム2015「カイヤ・サーリアホを迎えて」
2015年5月28日(木)19時開演
東京オペラシティ コンサートホール
与那城敬(ジョフレ・リュデル、バリトン)
林正子(クレマンス、ソプラノ)
池田香織(巡礼の旅人、メゾソプラノ)
東京混声合唱団
エルネスト・マルティネス=イスキエルド指揮東京交響楽団
ジャン=バティスト・バリエール(映像演出)
サーリアホ:歌劇「遥かなる愛」(演奏会形式)(2000、日本初演)
・第1幕
・第2幕
・第3幕
休憩
・第4幕
・第5幕

「神を通して我は知る、この遥かなる愛を」。
第3幕第2場、トリポリの海辺でのクレマンスの言葉をして、12世紀のこの時から今に至るまで、女性の純愛こそが世界を救うことなのだと知る。しかしながら、第2幕において巡礼の旅人がリュデルに諭すように、目の前の大切な存在、すなわち現実を顧みず、まだ見ぬ遥か彼方の聖なる女性を求める男の愚かさ。同じような主題を使っても、ワーグナーとは異なり「遥かなる愛」では女性の死は描かれない。いかにも女性作曲家の生み出したオペラなのである。

白眉はやはり第5幕。特に、リュデルが息絶えた第3場以降のクレマンスのモノローグ的な心の叫びを描く十数分(?)のかけがえのなさ。
カイヤ・サーリアホの音楽は前衛を駆使しながらも、シンプルで深く、そして重いながら美しい。これはもうマルティネス=イスキエルドの精妙な音楽作りと東響の表現センスの良さ(東洋的響きの見事な体現!)に依るところ大だと思うのだけれど、弱音の繊細さと強音の圧倒的響きにとても心動かされた。もっとも今回は大掛かりなPAが入っていたのと、バリエールの類い稀なる映像の助けがあったから一層音楽が心に届いたのだろうと想像する。

それにしても、音楽の(本邦)初演の場という歴史的瞬間に立ち会うのはとても貴重だ。
終演後、サーリアホがステージに上がった時の聴衆の熱狂ぶりと言ったら・・・。
素晴らしかった。

 

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1 COMMENT

岡本浩和の音楽日記「アレグロ・コン・ブリオ」

[…] 昨年、カイヤ・サーリアホの歌劇「遥かなる愛」(演奏会形式)を聴いた時、その母性に溢れた音楽に僕は感動した。強音と弱音の対比も素晴らしいながら、音楽は常に前を向き、しかもその音響によって聴衆のすべてを包み込もうとする力に満ちていることに心底動いたのである。 […]

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