アーノンクール指揮コンツェントゥス・ムジクスのハイドン交響曲第53番ほか(1990.6録音)を聴いて思ふ

haydn_harnoncourt_concentus_musicus555昨晩のコルネリウス・マイスター指揮読響のハイドンは素晴らしかった。
エステルハージ家に仕えていた作曲家が、主人を楽しませることはもちろん、演奏者の力量を誇示するべく独奏パートをひっきりなしに掲げる、協奏曲のような交響曲に心底感銘を受けた。
当時のハイドンの作品には、いわば宮仕えであるがゆえの余裕と、その反動で(常に新しいものを生み出さなければならないという)プレッシャーが感じられ興味深い。
そしてまた、作曲年代による進化が如実に垣間見え、彼の努力のほどがよくわかる。

再び岡本太郎の言葉を探る。

今日の芸術は、
うまくあってはいけない。
きれいであってはならない。
ここちよくあってはならない。

と、私は宣言します。それが芸術における根本条件である、と確信するからです。
(1954年8月「今日の芸術」)
岡本太郎著「原色の呪文」(講談社文芸文庫)P115

稀代の芸術家の言葉には迫力がある。
しかも発する側も享ける側も相応の覚悟を持てと。素敵である。

すぐれた芸術家は、はげしい意志と決意をもって、既成の常識を否定し、時代を新しく創造していきます。それは、芸術家がいままでの自分自身をも切りすて、のり越えて、おそろしい未知の世界に、おのれを賭けていった成果なのです。そういう作品を鑑賞するばあいは、こちらも作者と同じように、とどまっていないで駆け出さなければなりません。
~同上書P117

18世紀の欧州においても、「今日の芸術」という意味では同様だったろう。
ハイドンも「(既成の常識を否定する)おそろしい未知の世界に、おのれを賭けていった」のである。

ハイドン:
・交響曲第30番ハ長調Hob.I:30「アレルヤ」
・交響曲第53番ニ長調Hob.I:53「帝国」
・交響曲第69番ハ長調Hob.I:69「ラウドン将軍」
ニコラウス・アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス(1990.6録音)

1765年頃の第30番ハ長調と1779年頃の第53番ニ長調における音楽の質の歴然たる差!
交響曲第53番第1楽章ラルゴ・マエストーソの序奏とヴィヴァーチェの主部の対比の妙。堂々11分超の音楽がアーノンクールの確信的な棒によって鮮やかに奏される。続く第2楽章アンダンテ、静かな変奏曲の透明な美しさに感動。そして、いかにもアーノンクールらしい躍動感溢れる第3楽章メヌエット、また、終楽章(A版)カプリッチョの爽快で能天気な(?)前進性。素晴らしい!
アーノンクールのハイドンは特別だ(と思う)。

云うまでもなく芸術は創造である。とすれば過去の権威を破砕することによって飛躍的に弁証法的に発展すべきものである。芸術家は対決によって新しい創造の場を掴みとるのだ。最も強力な対決者を神棚に祀り上げてしまったのでは、この創造的契機は失われる。
「ピカソへの挑戦―権威破砕の弁証法」
~同上書P75

古くて新しいハイドンの音楽にはいつも新たな発見がある。

 

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2 COMMENTS

雅之

ハイドンとマーラーを組合せたコンサート、指揮者の力量が問われるという意味で、本当はハイドンのほうが難易度が高いと思います。

純度の高さと個性の両立を要求されるハイドンは、演奏する側も大変です。

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岡本 浩和

>雅之様

おっしゃるとおりです。
一晩明けてマイスターのハイドンの素晴らしさをあらためて思いました。
「純度の高さと個性の両立」がまさに全うされた良い演奏でした。

返信する

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