バランス

bruckner_5_knappertsbusch.jpgブルックナーの交響曲は奥深い。作曲当時一般聴衆によりわかりやすくという配慮から弟子のヨーゼフ・シャルクやフェルディナント・レーヴェの助言により、いわゆる「改訂版」というバージョンが作られた。そして、20世紀後半以降、「作曲者が本来意図した形での演奏を」という声の高まりと同時にこの版は「改悪版」、あるいは「改竄版」との異名をとり、コンサート会場で聴く機会をもてることはほとんどなくなった。しかし、昨日の雅之さんからいただいたコメントを読み、なるほど確かにその時代の背景、状況、あるいはニーズなど様々な角度、視点から物事を考え、捉えないと「理解」を誤ってしまうのでないかと思ったので、今日もそのことについて少々考えた。

なぜ師匠を尊敬していた弟子が「改訂」という行為を行ったのか?その真意、理由をしっかり理解することが肝心である。ブルックナーは敬虔なカトリック信者であり、それはその作品を聴いてみると「信仰心」の反映が具にみてとれるのだが、一方で人間としては「俗物」的な性格をもっており、その生活だけを見ても、大酒のみで大食漢、さらには強い結婚願望と同時に社会的地位と名声を終生追い求め、いくつもの肩書きや「証明書」に拘った。そういう師匠を見て「大衆の人気を得なければ話にならない」とおそらく弟子が好意でアレンジしたのだろうこと。そして、ブルックナーの創作物そのものが時代の先を行き過ぎ、日常的に繰り返し反復して作品に親しむことができなかった当時としては、より「わかりやすい」刺激的な味付けをした方が受け容れられやすいと判断しただろうことは雅之さんの指摘通り。
文献をいくつか復習的に読んでみて僕が思うに、ブルックナーは「心と身体のバランス」、「右脳と左脳のバランス」が極めて悪かったのだろう。神懸り的なインスピレーションで作品を創造したにも関わらず、あまりに社会から酷評を受け続けたことが自信喪失の原因になり、「ではどうすれば一般に認知され、受け容れられるのか」を彼は考え続けたのだろう。結局、「改訂版」は弟子が勝手にやった横暴でも何でもなく、少なくとも作曲者自身が実際にその出版を受け容れているわけだから、現代においてそれらがブルックナーの本質からかけ離れているといったところで、議論の余地なしとも思えるのだ。

ところで、僕が主宰している「ワークショップZERO~人間力向上セミナー」についてもある意味同じようなことがいえる。例えば不特定多数の方を目の前に講演をする場合。「目に見えない」人間の「土台」、「心」というものをテーマにするとき、10年前に比べたらはるかに一般的に受け容れられやすくなったとはいえ、即座に理解していただける人もいれば、まったく理解できない(それどころか拒絶感すら感じる)という人もいる。もちろん誰をターゲットにするかの問題ではあるが、例えば主催者が「まったく理解できない」類の人だった場合、とても苦しい問題となる。まだまだ駆け出しの、無名の僕などはどんなに的を射た「正しい」理論を展開したとしても、ある程度「わかりやすく」-つまり、目に見える「スキル」を前面に押し出した話をするべきなのか、それとも信念を貫いて、基本スタンスは変えず、これまで通りの話をするのか悩ましいところである。何だか、ブルックナーの気持ちがよくわかる(笑)。

いずれにしても「バランス」だろう。身の周りで起こることはどんなことでも「何かしらのメッセージ」をもっているわけだから、アドバイスをうまくとりいれてやってみよう。

以前は圧倒的に否定的見解を持ち、一刀両断していた「改訂版」について新たな視点で聴いてみるとこれはこれでありだろうと思えるようになる。大指揮者クナッパーツブッシュはどういうわけか「改訂版」でしか演奏しなかった。中でも「原典版」との相違が著しい第5や第9交響曲についてはほとんど聴く気になれないほどひどいものだと決めつけていたが、少なくとも正規でステレオ録音された「第5交響曲」については価値あるものだろうと今ではたまに聴いて楽しませていただいている。

ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(改訂版)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ブルックナーはこの曲の「改訂版」による初演(1894年4月9日、フランツ・シャルク指揮)は結局聴いていない。1895年12月18日のフェルディナント・レーヴェ指揮の再演も然り。実際の音を一度も耳にしていないのだ。弟子の勝手な改竄にひそかに抗議して会場に姿を見せなかったという見解が支持されているようだが、実際のところは単純に当時既に体調不良で外出もままならなかったのだろうと僕は思う。今この音盤をあらためて聴いてみて、その改作度合いはひどいが、それでもブルックナーの作品を世に広めようとする弟子の心底の愛を理解しながら聴くと、何だか愛おしくなる。

2 COMMENTS

雅之

こんばんは。
岡本さんの今日の本文、100%共感しました。
昨夜コメントさせていただいてから思ったんですが、打楽器の追加やロマン派的テンポ変化の書き加えなどの、弟子達やブルックナー本人による「改訂」(改悪)も、岡本さんがよく問題にされている、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス等の交響曲での「提示部の反復」も、CDなど録音で曲を何回も聴けなかった時代の、聴衆に曲を覚えさせるための音楽の作り手側の工夫という点で、共通していたのだと思います。つまり、当時としては大きな意味があった手法も、録音というものが発明され、一般的に聴衆が音楽を聴く手段のひとつになった時点で、役目を終わったということでしょう。今では逆効果としか思えませんよね(笑)。
ビデオといったものが一般家庭に存在しなかった私たちの子供のころ、大好きなテレビ番組は、食い入るように、ひとつも見逃さないように、真剣に見入ったものでした。
http://www.youtube.com/watch?v=ZzCZLNPv2jE&feature=channel
http://www.youtube.com/watch?v=z4dMAc1gMUA&feature=related
ひょっとすると、もう再放送はなく、これが一期一会かもしれないと思ったから・・・。
今の子供(我が息子、娘含む)は違います。いつでもDVDやビデオで観ることができると思っているから、私たちの世代の子供時代ほど真剣にテレビ番組を観ません。大好きな番組の最終回でも、あまり寂しくないようです。そこには、テレビに対する接し方の、世代間での大きな違いがあります。
作り手の側も、昔は細かな隙や矛盾はあまり気にせず大らかなものでしたが、今よりも一度見て強く印象に残る番組作りをしていたように思います。しかし今は特撮でもアニメでも、ストーリーも美術も、何回もの視聴に耐えるディテールの綿密さが求められています。
しかし、それは必ずしも作り手側の進化とは言えない面も、多いのではないでしょうか?

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。雅之さんから刺激を受け、僕も毎日いろいろと考えさせていただいてます。ありがとうございます。
ビデオのない時代は本当に食い入るようにテレビを観てましたね。それどころか番組を観るのに朝早く起きたり、その時間までに帰宅せねばと慌てて帰ったりと、必死だったことを思い出します。ご紹介のウルトラマンやQも懐かしいですね。ただし、年齢的に僕はオンタイムでは観れてないんですよね、これらは(1歳とか2歳の頃です)。
>作り手の側も、昔は細かな隙や矛盾はあまり気にせず大らかなものでしたが、今よりも一度見て強く印象に残る番組作りをしていたように思います。
おっしゃるとおりです。とにかくいろんなことが「進化」なのか「退化」なのかわからなくなっていますよね。

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