1年3ヶ月ぶりのエリック・ハイドシェック・ピアノ・リサイタル。今回の来日ではオール・ベートーヴェン・プログラム一つを引っさげて全国何ヶ所かを縦断。だいぶお疲れのようで、第1部の「悲愴」ソナタも自作の主題による変奏曲ももうひとつのノリで、一瞬大丈夫かという予感が過ぎった。今回は久しぶりに大きなホール(サントリーホール)での演奏だったので、幾分音が散漫で、会場の良し悪しも随分影響するなとも考えさせられた(やはりピアノ・ソロ・コンサートはもう少し小さなホールでやるべきではと実感)。従来ハイドシェックは浜離宮朝日ホールでの演奏を好んでいたのか、ここ数年は常に浜離宮だったから、やっぱりあのレベル(500人規模)の空間で聴いてみたかったと思った。
しかしながら、休憩後の後期の作品-すなわち6つのバガテル作品126と、第31番ソナタ作品110は最晩年の楽聖の内なる世界を体現した二つとない傑作ゆえ、ハイドシェックならではの深遠な世界を創出していたし、お洒落な節回しと独特の弾き方が絶妙だった。
まぁ、ソナタの第2楽章では一瞬崩れそうになり、いつだったかの二の舞を踏むのではと聴いてるこちらが冷や冷やする瞬間があったのはご愛嬌で、さすがにラストのフーガでは深沈たる精神世界を堪能させてくれた。
ちなみにアンコールも7曲(厳密には6曲)-
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第2番ヘ長調K280~第2楽章
シューマン:『子供の情景』~トロイメライ
ドビュッシー:『子供の領分』~象の子守歌
エリック・ハイドシェック:「ラ・マルセエーズの主題による23のパラフレーズ」~ドビュッシー風(これは結局完奏できず途中で断念-こういうハプニングがあるからハイドシェックのコンサートはまた面白い)
J.S.バッハ:ピアノ協奏曲ヘ短調から第1楽章
ドビュッシー:『子供の領分』~小さな羊飼い
シューマン:『子供の情景』~「見知らぬ国と人びと」
というメニューで、いつもながら感動と同時に大満足の一夜であったことを付け加えておく。
毎度のことながらハイドシェックのコンサートを訪れ考えさせられること。
観客へのサービス精神の旺盛さ、それも社交辞令的でなく本当に「想い」のこもった演奏を繰り広げてくれるところが何より素晴らしい。どんなに体調が悪かろうとどんなに気分が乗らなかろうと、お客様に喜んでいただけるのであればステージに出て音楽を奏でる。そういうポリシーが芯から伝わってくるのだ。例えば、アンコールの自作においても途中でわからなくなり弾き直そうとしたものの、いよいよ無理になり、観客に謝罪して別の楽曲を弾く(それが今回はバッハだったのだが・・・)。普通の常識的なピアニストなら絶対にやらないようなことをやってのける、それほどある意味肝がすわり(笑)人間臭いところが彼の良いところであり、凄みなのである。
考えてみればLiveというものは瑕があって当たり前だし、ハプニングが起こって当然なのだから。我々観客は完璧なテクニックを聴きたいわけではないのだ。音楽を通じて「心」を感じたいだけなのである。
さらに、相変わらず終演後にはサイン会(今回はCDを購入した方へのサービスだったので、残念ながらパス。なぜなら彼のCDは全部所有しているから)。齢70を越え、たいしたバイタリティーである。
ともあれ、音楽に限らず他人に対するサービス(想い)とはどういうことなのかをあらためて知らされた経験であった。ハイドシェック氏に感謝。
こんなコンサートの後に特にとりあげるべき音盤はない。今夜のハイドシェックの名演の余韻に浸ろう。とも思ったが、あえて競合となる内田光子の名演奏を挙げておく。
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110
内田光子(ピアノ)
数年前、これもサントリーホールで内田による最晩年のベートーヴェンの3つのソナタを聴いた。いよいよ彼女も至高の境地に達しつつあることを示した驚愕のコンサートであった。実演では今日のハイドシェックを凌ぐように思う。
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