他人の創造物に化粧を施す意義はあるのか?
ポピュラー音楽の世界では、他人の作品のカヴァーとなると当然のように独自のアレンジを試み、まるで別作品のように再創造するケースも少なくない。中には、トッド・ラングレンのように愛着のある楽曲を完全コピーするという挑戦もあるが、稀。
再現芸術というのは、アレンジする側のセンスが問われる立派な創造行為である。
クラシック音楽の場合、事情は少し異なる。作曲者が未完のまま放置したか、あるいは完成を見ぬまま逝ってしまったか・・・。いわゆるトルソー作品を補完し、新たな作品として世に問う行為は果たして是なのか非なのか。その出来にも左右されるのだろうが、僕の独断と偏見ではどんなものであろうと「是」。そもそも後世の研究者が「完全な形」で享受したいというファンの欲求を汲み取って成す勇気ある行動だと思えるから。それに考え方は十人十色。どれもが説得力があり、一方で不満もあるものだ。
また例えば、別の音楽的イディオムが横行し、どうしてもその作曲家らしくないセンテンスやフレーズに満ちる補完は「非」とされる場合が多いように思うが、こちらもあくまで独断だがナンセンス。いくら「らしい」ものを組み立てられたとしても所詮は「偽物」、いや「つくりもの」なのだから。ならば、徹底的に「遊んだ」方が良い。元ネタを完全崩壊させるまでの横暴となれば話は別だが(それでもそれが新しい別の音楽と認知されるならあり)、何せ(編纂者は)みなその音楽を愛するが余りの行動ゆえ、必ず「愛」に満ちたものになるのだから。
グスタフ・マーラーは交響曲における「9番」のジンクスを怖れたらしい。しかしながら、途中様々回避したものの、哀しいかな結局第10番を完成することができなかったという宿命・・・。
この20日に、エリアフ・インバルが都響とともに第10番を披露する。第3楽章「プルガトリオ」を中心に据えたマーラー得意のシンメトリカル構成。この巨大な未完成作品はまさにマーラーの遺言であり、それこそが最高傑作になるはずだった稀代の交響曲。
マーラー:交響曲第10番(デリック・クック復元版)
エリアフ・インバル指揮フランクフルト放送交響楽団(1992.1.15-17録音)
少なくとも楽章構成と順番が、マーラー自身が意図したものだと想定の上で言えることだが、亡くなる直前のマーラーの内側に在った苦悩がそのまま音化されるよう。死への恐怖は薄れ、恍惚と浄化の道を辿る彼の魂は、「プルガトリオ(煉獄)」に堕ち、救いは保証されるとはいうものの、無念を胸に決して浮かばれることなく再生、現世で再びその「怒り」と「懺悔」を音に委ね、最後は「諦念」とともに朽ち果てる。
そう、あくまで僕の勝手な「妄想」だが、わずか4分に満たない「プルガトリオ」こそが鍵となるのである。
全曲を通じマーラーの深層心理にある自身の妻アルマへの愛憎が入り乱れる。第5楽章冒頭の不気味な太鼓の響きに卒倒する。いかにもマーラーが描きそうな音。安寧が訪れたかと思いきや突如怒号が噴出する。とはいえ、第10番に支離滅裂さはなく、珍しく「透明さ」を獲得する。補筆の中でも最もメジャーなデリック・クック版は、まさにマーラーが復活し、自らオーケストレーションを施し完成させたものに近いように思えるが、丁寧なまとまり感が逆にマーラーらしくないといえばらしくない。
いや、「空論」は止そう。これは純粋なマーラーの作品ではなく、マーラーのアイデアを基にクックが創作した大交響曲なんだ。それでいい。
マーラーは、アルマとヴァルター・グロピウスとの関係を知り、ショックを受けた以上にアルマがどれだけ精神的に追い詰められていたこともわかって、ジークムント・フロイトの診察を受けました。それでも、マーラーは、アルマがグロピウスと文通していたことすら知りませんでした。その中で、アルマは、
「グロピウスの子を生みたい。」
と言っています。とはいえ、マーラーの死後、アルマはオスカー・ココシュカのとの恋愛を経て、グロピウスと正式に結婚、マノンを生みました。マノンは小児麻痺の末、夭折しました。アルバン・ベルクがマノンのレクイエムとしてヴァイオリン協奏曲を作曲、同時に作曲していたオペラ「ルル」は未完のまま残り、ツェルハが補筆しました。
グロピウスは、アルマが美術評論家ヴェルフェルとの間に子どもを生んだことを知ると、アルマと離婚しました。アルマは、ヴェルフェルと再婚、ナチスの迫害を逃れ、アメリカに亡命し、ヴェルフェルの最期を看取り、1964年、この世を去りました。墓はグリンツィング墓地にあり、グロピウスとの間に生まれた娘マノンのそばです。