ジュリーニのドビュッシー&ラヴェル

本日の「早わかりクラシック音楽入門講座」では、チェリビダッケ&ミュンヘン・フィルによる「ボレロ」の後、モーリス・ベジャール振付によるジョルジュ・ドンの「ボレロ」を観ていただいた。コンサートとバレエとを比較する意味合いもあってのことだが、それより何よりチェリビダッケの丁寧な、というか遅々としたスピードが一層際立ち、やっぱり僕的にはクリュイタンスのような、洒落て軽快なテンポの方が活き活き感が伝わり、好きだと思ったことが大いなる気づき。
ただし、チェリビダッケのテンポでいくと楽曲の隅々までもがしっかり見通せてより深く「ボレロ」という音楽の構成が読み取れたので良かった(それにしてもあの流れを維持するのに奏者は大変だろうなとも思ったけれど)。

それと後半には、バーンスタイン&聖チェチーリア国立音楽院管によるドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」と「海(ラ・メール)」から「風の海との対話」を。晩年のバーンスタイン特有のテンポもあってか、気持ち良く眠りを誘うアンニュイな雰囲気を醸す名演奏。どういうわけかその後からずっと頭の中を、「海」のある部分(ドゥダメルによるこの演奏の2分30秒あたりから)が繰り返し鳴り響いており、ドビュッシーの洗脳能力というのは大したものだと感心。彼のいくつかある管弦楽作品中でこの「海(ラ・メール)」こそが最高傑作だと僕は考えるが、ベートーヴェンとは違った手法でこれほどまでに自然を上手に描写しているのは驚異的である。

講座後もセッションや打ち合わせをこなし、帰宅してからやっぱりドビュッシーの音が鳴り止まず、勢い余って(笑)とんでもない音盤を取り出した。

ドビュッシー:
・交響詩「海」~3つの交響的素描
・牧神の午後への前奏曲
ラヴェル:
・亡き王女のためのパヴァーヌ
・組曲「マ・メール・ロワ」
カルロ・マリア・ジュリーニ指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1994.2.23-25&1989.11.23&24Live)

こちらも名匠ジュリーニの晩年のスタイルが踏襲された極めつけのドビュッシー&ラヴェル。多少ラテンの血が混ざっているからかどうなのか、外面的装いはバーンスタインに近いのだが、内面から沁み出す「音彩」がバーンスタインとはまったく異なる。バーンスタインの方は重心が低く、重たいところがあるが、ジュリーニのは浮遊感が秀でた軽快さが非常に感じられるとでもいうか。この際どちらが良いとか悪いとか、あるいは好きとか嫌いとかは言うまい。両巨匠の晩年の甲乙つけがたい名演奏たちである。
それとラヴェル!!「亡き王女」は筆舌に尽くしがたい哀感が見事に表現されており、そして「マ・メール・ロワ」の零れ落ちそうなメルヘンチックな愉悦感。これは必聴の1枚と断言できる。

さて、あっという間の1週間。明日はワークショップZEROの第2日目になる。どんな展開が待っているのか、楽しみである。


5 COMMENTS

雅之

おはようございます。

魚介類や野菜など家族の食料品を買うとき、産地をとても気にするようになりました。
気にしても決して逃れられるものではありませんが。

http://d.hatena.ne.jp/rakkochan+zaiseihatan/20120120/p1

http://www.nhk.or.jp/special/onair/120115.html
(本日、朝10:00からも再放送をやるらしいです)

震災後、私はドビュッシー「海」に、本来とは異なるイメージを感じてしまい困っています。

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雅之

ところで、ご紹介のジュリーニ盤は、聴くオーディオ装置によって、まるで演奏の印象が違う経験をしています。どんな録音でもそうですが、とりわけ音色が勝負となる曲たちなので・・・。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。

>震災後、私はドビュッシー「海」に、本来とは異なるイメージを感じてしまい困っています。

おっしゃる通りですね。
ただ、自然も人間も、仏のような側面と同時に鬼のような側面ももつということは否めません。
程度の差こそあれ、それが万物の現実なのでしょうね。結構、冷めたようなものの言い方しれませんが、、、

>聴くオーディオ装置によって、まるで演奏の印象が違う経験をしています。

なるほど。音も装置も固有の特性があり、生きているということなんでしょうね。
聴き比べてみたいです。

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