五嶋みどりのバッハ「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ」(2013.8録音)を聴いて思ふ

bach_solo_violin_midori356最初の音を聴いて「普通」ではないと直感した。
どんなに聴き慣れた作品でも、初めて聴いた時のような錯覚に陥るときがある。そういうものこそ真の名演奏というのだろう。

何て美しいのだろう。すべてが削ぎ落とされた極限美。
少なくとも僕のイメージにあるバッハはもっと峻厳で、襟を正して聴くべき堅牢な外観だ。特に、ケーテン時代を代表する数多の世俗作品は、バッハの教会音楽以上に宗教性が反映されるものだと僕は信じてきた。神のためにではなく、自身の内なる思想や近しい親族のために書いた音楽にこそ奥深い信仰が読みとれ、その中にこそ人間バッハの自由が飛翔するのである。

しかし僕は、この録音を聴いて少しばかり考えが変わった。
そこにあるのはまさに音楽そのものだけ。宗教性や世俗性という分類自体がいかに陳腐なものであることか。天才は何のために作曲するのか。それは本来自発的なもので、自身の感情を超えた、それこそ陰陽相反するものを包含する行為だ。そしておそらくバッハはそのことがわかっていた。同時に、五嶋みどりも正負様々な体験を通じて今ほとんど悟りのような境地に達したのだろう。
「楽しみも苦しみも、すべて音になる」とは五嶋みどりの言。しかし今や、彼女はそんな思考すら超えたのだと思う。

一切の虚飾を排した、作曲者の思惑を超え、そして奏者の存在すら拒否する純粋無垢の音楽が鳴り渡る。完全無欠の無伴奏ヴァイオリン作品集。

J.S.バッハ:無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ
・ソナタ第1番ト短調BWV1001
・パルティータ第1番ロ短調BWV1002
・ソナタ第2番イ短調BWV1003
・パルティータ第2番ニ短調BWV1004
・ソナタ第3番ハ長調BWV1005
・パルティータ第3番ホ長調BWV1006
五嶋みどり(ヴァイオリン)(2013.8.13-17録音)

ここで僕がこの音楽を褒め称え、説明しようともその本質を言い当てることは決してできまい。
ただただひたすら音楽そのものに耳を傾けていただきたい。それだけ。

そういえば、エレーヌ・グリモーがこんなことを書いていた。

神の定義をご存じだろうか?古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスによれば、神とは「夜であり昼、冬であり夏、戦争であり平和、豊饒であり、飢饉である。こうして、香料を混ぜられた火をだれもが自分の好きな名で呼ぶように、神はつねに他となる」。
実際には、ヘラクレイトスが崇拝した神、このつねに他である二重の神のギリシャ語でのほんとうの名前は「戦い」だ。この異様な「神=戦い」はなにを象徴するのか?それはまさに対立物どうしの原初における統一にほかならない。対立物どうしはそれぞれが、相反する方向に向かって、対立する緊張の極限まで引っ張られた状態に保たれている。それでは夜と昼、戦争と平和のどちらが降伏するのか?どちらでもない。なぜならば両者は、たがいのあいだにひとつの調和を作り出すような形、調和を生み出させるような形で、保たれているのだから。調和とは、この神のもうひとつの名前だ。でも、注意する必要がある!ヘラクレイトスにおけるギリシャ語の単語「調和」は、私たちがプラトン以降、「調和」と名づけてきた甘ったるい安らぎとはまったく関係がない。ヘラクレイトスの神の調和は、対立する力と力がしっかりと結び合わされた接点、これら対立する緊張の結合の結果を言っているにすぎない。
エレーヌ・グリモー著/北代美和子訳「野生のしらべ」(ランダムハウス講談社)P93

何という正鵠を射た思考。エレーヌも間違いなく「悟り」の状態にあろう。

五嶋みどりの最新のバッハには夜があり昼がある。戦いがあり安らぎがある。また豊かでもあり貧しくもある。ここには、エレーヌ・グリモーが表現する「対立する力と力がしっかりと結び合わされた接点」としての偉大な音楽があるのである。

 

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