うーん、いまひとつだった。期待が大きすぎたということもあるだろう。それとも耳にこびりついているサイの衝撃的演奏とついつい比較してしまって、並みの演奏だと納得できないのか。「ヴァレリー・アファナシエフ ピアノ・リサイタル音楽劇『展覧会の絵』」。大入り、ほぼ満席の会場は熱気と同時に、不思議な空気が漂っていた。僕が今まで経験したことのない空気。クラシック音楽についてはそれほど詳しくないが相方に誘われて何となく興味本位で来場しているのかというような人々。あるいはかねてより熱狂的だというアファナシエフ信奉者。観客の緊張感が少々薄いのではないか、そんな風に感じさせられる幕開けだった。
前半は、
・ドビュッシー:前奏曲集第1巻~第6曲「雪の上の足跡」
・プロコフィエフ:風刺(サルカズム)~第2曲「間のびしたアレグロ」
・ショスタコーヴィチ:24の前奏曲~第14曲変ホ短調
・プロコフィエフ:風刺(サルカズム)~第1曲「嵐のように」
・ドビュッシー:前奏曲集第1巻~第10曲「沈める寺」
というもの。
20世紀前半に創作された名曲たちを散りばめ、メイン・プログラムの「展覧会の絵」と相似形を為すように組まれていると解説には書かれているが、ピアニストの勝手気儘な意図を汲み取り、あれこれ考えるのはあまりに疲れてしまう、というくらい「左脳的」な解釈であり、演奏だった。とにかく心にずしんと染み渡らない。直接的に響いてこない。これまでリリースされた音盤ではあれほどの感動を与えてくれたアファナシエフにもかかわらず、全く届かない。果たしてこれが彼の真の実力なのか?いや、そんなはずはないだろう。ともかくよくわからなくなった・・・(正直後半は期待できるのか少々不安になった)。15分の休憩後、いよいよメイン・プログラムだ。
・ムソルグスキー:音楽劇「展覧会の絵」
ピアニスト自身が表現したいことはよくわかった。でも果たして作曲者はそんなにあれこれと難しいことを考えてこの音楽を作ったのだろうか?アルコール中毒に冒されていたとはいえ、神とつながるかのようにただただ感性の赴くまま筆を走らせたのではないのか。音楽劇と題するだけに、アファナシエフ本人が書いた台本に沿って、彼が演者になり、物語が進行していく。「展覧会」の各楽曲は、基本的に2曲ずつひとくくりで演奏され、その間物語で流れが中断される。いや、音楽劇なのだから中断という言い方は当たっていないかもしれない。その物語も含めて今回のパフォーマンスなのだから、それは許容範囲だろう。少なくとも最後の熱狂的な拍手を送り、長い列を作ってサイン会を待っていたファンと思しき方々にとってはそれが「観たくて」来場しているようなものなのだろうから。
それでも演奏そのものが刺激的であるなら何の問題もなかった。しかし、「え、これがあのアファナシエフなの?」と思ってしまうほど凡庸な(少なくとも僕にはそう思えた。同伴した妻も同じような感想だったから僕の感覚がおかしいのではないだろう)演奏だった。終わった後に何も残らない演奏・・・。昨年12月に聴いたファジル・サイの「展覧会」はアンコールで「カタコンブ」以降を演奏したに過ぎないから、単純に比較をしてはいけないのだが、これでサイの才能の凄さ、天才がより一層浮き彫りになったように僕は感じた(終演直後、ファジル・サイの「展覧会の絵」の全曲を聴いてみたくなったほど)。
劇中、アファナシエフによって語られる言葉
「作品は時とともに成長しつづけるものであり、ムソルグスキーにしても、ドビュッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、ベルク、ショスタコーヴィチ、エルンスト、ムンク、ソルジェニーツィン、フォークナー、…そしてヴァレリー・アファナシエフと、今ではこれらすべてが彼の中に生きているのだ」
「作品にはさまざまな面が無限に隠されている。だから一つの演奏はその作品の色々な側面のごく一部分を表現しているにすぎないのだ」
確かにおっしゃるとおりだ。でも、それはアファナシエフの思考であって、ムソルグスキーのそれではない。
あ、そうか、今わかった。僕は今日アファナシエフの弾くムソルグスキーを聴きに行くつもりだったんだ。でも、実際にはムソルグスキーではなくアファナシエフその人を聴く羽目になったから肩透かしを食らったような気にさせられたのだろう。彼の弾くショパンやブラームスの音盤は音楽しか感じさせないのに、こうやって劇にしてしまうとどうしても創作者の色にやられてしまうんだな・・・。才能を持て余しているのだろうが、アファナシエフは変わったことをせず、純粋に音楽の求道者として身を捧げた方が良いようにも思うが。
初台、東京オペラシティコンサートホールにて
おはようございます。
アファナシエフのリサイタル、今一でしたか。私も先月買ったシューマンの「交響的練習曲」他の新譜CD、未だに評価を決め兼ねています。
難しいものですね、実演経験も・・・。ただ、偶々聴いた日が凡演だったからといって、いつもそうとも限らないでしょうしね。何回かに1回は超弩級の名演ということは、充分あり得る話でしょうしね。そういうぎりぎりの際どい演奏を目指す人なら尚更でしょう(スポーツの試合や、我々の仕事だって同様ですからね・・・笑)。
まあ、同時代の演奏家について語ることさえこんなに困難なのですから、物理的にも極めて頼りない、経年劣化した録音しか残っていない物故した大昔の演奏家を、我々が復刻CDを聴くだけでわかったつもりになることなど、笑止千万、愚の骨頂、ナンセンス極まりない行為だと、改めて思います。
>クラシック音楽についてはそれほど詳しくないが相方に誘われて何となく興味本位で来場しているのかというような人々。あるいはかねてより熱狂的だというアファナシエフ信奉者。観客の緊張感が少々薄いのではないか
ナイーブな演奏家だったら、そういう当日のスノッブが多い聴衆の質を、敏感に感じ取った可能性もありますね。「今日は金儲けに徹しよう」と・・・。私が法外なチケット代の超一流の海外の演奏家の来日公演に抵抗感があるのも、こういう空気を時々感じるからです。いい鴨ネギにされているような気がして・・・。
許光俊氏は必ずしも私の好きな評論家ではありませんが、下のエッセイの、最近行われたポリーニの来日公演について触れた部分には、共感できました。
http://www.hmv.co.jp/news/article/905290172/
>雅之様
おはようございます。
期待が大きすぎたというのもあるかもしれませんが、偶然同じ会場にいあわせたらしい知人があとからメールを送ってきて「アファナシエフはクレーメルとデュオでやってたころが最高だった」と言ってましたので、年を追うごとにレベルが落ちてきてるのかもしれませんね(彼は有名無名東西演奏家のコンサートに年間100回以上通っている人なのでその辺の意見は確かだと思います。しかも初来日のツェッペリンやフロイドなんかも聴いているようなつわものです)。ただし、雅之さんがおっしゃるように「偶々聴いた日が凡演だった」のかもしれませんし、何とも評価できませんね、確かに。芸術家といえ人間ですからね。環境やその日の体調や様々なものに影響受けますからね。また折を見て聴いてみたいと思っています。
>物理的にも極めて頼りない、経年劣化した録音しか残っていない物故した大昔の演奏家を、我々が復刻CDを聴くだけでわかったつもりになることなど、笑止千万、愚の骨頂、ナンセンス極まりない行為
同感です。
あと、許光俊氏のエッセー、同じく共感できます。しかし、ベルティーニの「トリスタン」気になりますねぇ(笑)。
[…] アファナシエフの印象は、気難しさと小難しさ。 ブラームスの後期小品集やショパンのノクターン集、あるいはマズルカ集などは初めて聴いたときその深遠さと巨大さに相当感激したものだが、基本的に考え過ぎの、頭で作った音楽に聴こえてしまうところが難点(実際にオペラシティで聴いたリサイタルも今一つの印象だった)。 しかしながら、このバッハは違う。おそらくショスタコーヴィチが脳天を直撃されたときの衝撃のような静かな破壊力がある。バッハが平均律というシステムを完成させたことは音楽史的にみて画期的な事件だろうが、そもそもこの平均律というシステムが四角四面の枠のように音楽家を苦しめてきたともいえまいか。素人的な思考でしかないけれど。 […]
[…] ヴァレリー・アファナシエフのショパンやブラームスが好きで、一時期一辺倒で聴いていた時期があった。DENONからリリースされているノクターン集やマズルカ集、あるいは後期小品集などは今でもそれらのベスト演奏のひとつだろうと考える。 当然、演奏会にも通うわけで、何年か前に「展覧会の絵」をやるというので喜び勇んで出かけ、何だかつまらなくて落胆して以来、一気に熱が冷め、それから彼の音盤を聴くことも滅多になくなった。 あのムソルグスキーがなぜよくなかったのか?寸劇を交えてのあまりに文学的過ぎる演出、内容だったから。少なくとも作曲者自身の頭の中には純粋に音楽しかないはずなのに、それを頭でこねくり回して無理矢理ストーリーを作り上げた、そういう違和感があったのだと思う。 […]