ハイドシェックのモーツァルトK.482&K.488を聴いて思ふ

mozart_22_23_heidsieck_mozarteum今宵の月はエネルギッシュだ。光り輝く月には見事な影ができる。それはまるでモーツァルトの音楽のよう。光と翳の対比と、生と死の狭間で明滅する危うげな調和。
堀口大學訳「月下の一群」から。

私はただに思ふのだ
死の冷たい戦慄が来て捕る前に
このよろこびをわたしたち二人の肉体に
与へようと欲することによつて
この広い大きな寝床の中に
裸体のまま埋もれてゐるわたしたちの事を
~「11月」(ギイ・シャルル・クロス)

モーツァルトが生きた時代、特に最晩年はフランス革命とまさに相前後する時期で、その時代の空気を彼が感じなかったとは到底思えない。父の死や、人気に陰りが出ての予約演奏会の不調など個人的なトランジションが原因で一層哲学的で内省的な作品に傾いていったのは当然のことだろうが、もっと大きな視点からみると時代の空気というのがやっぱりあり、そういうものに確実に影響を受けていたんだろうと想像する。そう、少し短絡的に過ぎるけれど、明治維新前後の日本国の憂鬱と希望が錯綜したであろうと同様の(そうはいっても庶民はそんなことはまったく感じていなかったかもしれないが)空気を敏感に感じ取っていた。
そんな中で、モーツァルトの感性は極端に飛翔した。それは21世紀の今でこそ理解できる真の調和というものを深層で悟り、音楽を通じて目指したかのような天才による。
例えば、わずか2ヶ月半で書き上げてしまった最後の3つの交響曲然り、もちろん歌劇「魔笛」然り。

音楽が一層深化・進化する直前のモーツァルトはいろいろな意味で絶好調だった。自らの演奏の腕前と、そして自らが創造した音楽を披露する舞台。絶頂期のあの時代の一連の協奏曲にも自然が息づき、宇宙が鳴動し、神が宿る。

モーツァルト:
・ピアノ協奏曲第22番変ホ長調K.482
・ピアノ協奏曲第23番イ長調K.488
エリック・ハイドシェック(ピアノ)
ハンス・グラーフ指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団(1993.4.3&4録音)

協奏曲を聴く醍醐味のひとつはカデンツァにある。今の時代、自らのカデンツァを用いる演奏家は19世紀当時に比較して少ないだろうが、それでも果敢に挑戦する人をみるとそれだけでその演奏が一回りも二回りも大きく見えるのだから面白い。
中で、イ長調協奏曲K.488。僕はこの作品こそこのジャンルにおけるアマデウスの最高傑作だろうと考える。一推しはオーソドックスなのだけれど、実に多彩な響きを聴かせるアシュケナージの弾き振り盤。昨日、クリヴィヌの「ジュピター」交響曲をまともに聴いてみて、音の美しさにしびれたのだが、おそらく1980年代のフィルハーモニア管弦楽団の力量というのは大変なものだったのだろう。特に、弦楽器の繊細でありながら芯のある分厚い音に感動も一入。さらに、この演奏は作曲者によるカデンツァを使用しているということもあり、その意味でも安心して聴けるということだ。

とはいえ、時に様相を異にするものも聴きたくなる。先年リリースされたエレーヌ・グリモーの、自作ではないけれどフェルッチョ・ブゾーニのカデンツァを使用したあの演奏も素晴らしかった。ついでにもうひとつ興味深いものがある。エリック・ハイドシェックが自作のカデンツァを披露したビクター盤。
彼のソナタの新録盤と異なり、古典の枠を決して逸脱せず、ギリギリのラインで留まった挑戦的なモーツァルト。本当はこういうものは実演で聴くべきものだ(20余年前に聴いた宇野功芳氏とのK.595のスリリングな名演を思い出す)。実演ならば一層の感銘を受けただろうと想像できる大パフォーマンス。

K.488はやっぱり名曲だ。

 


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2 COMMENTS

畑山千恵子

29日、ハイドシェックのリサイタルに行きます。今回は東京文化会館小ホールです。紀尾井ホールのようなところがよかったかもしれませんね。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
29日いらっしゃるのですね!確かに文化会館というのが残念ではあります。
とはいえ、僕はほぼ2年ぶりなので楽しみです。

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