マリア・カラスのプッチーニ歌劇「トスカ」(1953.8録音)を聴いて思ふ

万物はいずれ死を迎えるものだが、それを自然に任せるか、自らの手によりその決を下すか、その是非は時の趨勢に関連していつの時代も問われてきた。何が正しいなどというのは本来人間には判断できぬもの。しかし、どんなに苦しかろうと、どんなに大義をかざそうと、やっぱり自死はいけないと僕は思う。

それがいわゆる「武士道」というものなのかどうなのか、その真髄は僕にはわからない。
潔さが美徳だった時代はそれで良かったのかもしれないけれど。
洞院宮治典王殿下を前にしての飯沼勲少年の言は、今となっては時代錯誤甚だしいが、この傾斜した思想の根幹に頑なな、少し曲がった愛を発見する(それを愛と表現するならばだが)。

「はい。忠義とは、私には、自分の手が火傷をするほど熱い飯を握って、ただ陛下に差上げたい一心で握り飯を作って、御前に捧げることだと思います。その結果、もし陛下が御空腹でなく、すげなくお返しになったり、あるいは、「こんな不味いものを喰えるか」と仰言って、こちらの顔へ握り飯をぶつけられるようなことがあった場合も、顔に飯粒をつけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が御空腹であって、よろこんでその握り飯を召し上がっても、直ちに退って、ありがたく腹を切らねばなりません。何故なら、草莽の手を以て直に握った飯を、大御食として奉った罪は万死に値いするからです。では、握り飯を作って献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりましょうか。飯はやがて腐るに決まっています。これも忠義ではありましょうが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。勇気ある忠義とは、死をかえりみず、その一心に作った握り飯を献上することであります」
三島由紀夫著「奔馬(豊饒の海・第2巻)」(新潮文庫)P221

何にせよ覚悟を持ってやれと言うのだろう。しかし、こう言っては元も子もないが、死ぬのは簡単だ。恥も外聞も捨てて生き抜くことの方がはるかに難しい。

登場人物すべてが死に至る「トスカ」の、(30分に満たない)第3幕の妖艶な音楽に、そして各々の劇的な心情吐露の歌唱に、死とはやはり愛と裏腹なのだと感じ入る。

・プッチーニ:歌劇「トスカ」
マリア・カラス(フローリア・トスカ、ソプラノ)
ジュゼッペ・ディ・ステファノ(マリオ・カヴァラドッシ、テノール)
ティート・ゴッビ(スカルピア、バリトン)
フランコ・カラブレーゼ(チェーザレ・アンジェロッティ、バス)
アンジェロ・メルクリアーリ(スポレッタ、テノール)
メルキオーレ・ルイゼ(堂守、バリトン)
ダリオ・カゼルリ(シャルローネ&牢番、バス)
アルヴァーロ・コルドヴァ(羊飼い、ボーイ・ソプラノ)
ヴィクトール・デ・サーバタ指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団&合唱団(1953.8.10-21録音)

カラス扮するトスカの赤裸々な叫びは寒気を催すほど壮絶だ。
特に第3幕の、緩急あり、愛と怒りが、そして憎悪と悲しみが錯綜する音楽はプッチーニの真骨頂。例えば、冒頭の、羊飼いのソロに続く、鐘の音を伴っての美しくも悲しい旋律は、サーバタ指揮スカラ座管弦楽団の成せる技。
そして、ディ・ステファノ扮するカヴァラドッシの歌う思い入れたっぷりのアリア「星は光りぬ」の強力な磁性に感応する。

「罪と知りつつ、そうするのか」
「はい。殿下はじめ、軍人の方々はお仕合せです。陛下の御命令に従って命を捨てるのが、すなわち軍人の忠義だからであります。しかし一般の民草の場合、御命令なき忠義はいつでも罪となることを覚悟せねばなりません」
「法に従え、ということは陛下の御命令ではないのか。裁判所といえども、陛下の裁判所である」
「私の申上げる罪とは、法律上の罪ではありません。聖明が蔽われているこのような世に生きていながら、何もせずに生き永らえているということがまず第一の罪であります。その大罪を祓うには、瀆神の罪を犯してまでも、何とか熱い握り飯を拵えて献上して、自らの忠心を行為にあらわして、即刻腹を切ることです。死ねばすべては清められますが、生きているかぎり、右すれば罪、左すれば罪、どのみち罪を犯していることに変りはありません」
~同上書P221-222

三島由紀夫の本懐。そして、ここには「トスカ」をはじめとするイタリア歌劇に底流する「死して浄める」という精神と相通ずるものを見る。
人間というもの、死んでその原罪を葬り去るしかないのだろうか?
そんな風には僕には思えないのだが・・・。

名盤中の名盤、カラスを配したサーバタ指揮スカラ座の「トスカ」のうねりは今もって健在。

 

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5 COMMENTS

雅之

私にとって「武士道」とは。

「罪と知りつつ、買うのか」
「いいえ。もう、CDなんてつまらないものは買わない覚悟ですあります」

武士は食わねど高楊枝 (>_<) 断捨離して清める??

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雅之

少しだけごまかさず真面目に・・・。

>人間というもの、死んでその原罪を葬り去るしかないのだろうか?
そんな風には僕には思えないのだが・・・。

毎回のようにつくづく痛感するんですが、じつのところ、岡本様の死生観にも三島由紀夫の死生観にも、私にはちっとも憧憬の念を抱けてないんですよね。特に岡本様の輪廻への肯定的確信部分が、私にとっては一番そうあって欲しくない死後のありかたなんです。百歩譲って輪廻があるにしても、そこから何としても解脱を図りたい口です。その点で、三島の死生観のほうが潔く、岡本様のそれより余程共感できるところは多いです。

まあ、私の場合、現況は音楽やCDへの執着が別の趣味への執着に移行しただけで、悲しいかな煩悩の連鎖と総量は以前とあまり変わりなく、あまり偉そうなことは言えないんですが(十分言ってる・・・笑)。

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岡本 浩和

>雅之様

解脱を図りたい口というのは僕も同じくですよ。
解脱というのは輪廻あってのもので、輪廻がなければ解脱もないですから。
とはいえ、僕もまだまだ煩悩の塊で、そこには到底至りません。(笑)

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