急に秋の気配。
ヨハネス・ブラームスの交響曲第4番。
第1楽章アレグロ・ノン・トロッポ冒頭第1主題(三度下降、そして六度上昇の連続音形)を初めて聴いたとき、その濃密なヴァイオリンの響きに僕は一気に惹き込まれた。後に、様々な演奏を聴き比べて思ったのは、最初の印象が強烈過ぎたことと、それゆえ繰り返し耳にしたことによる圧倒的刷り込み。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルによる1948年の実況録音を聴くと思い出すのが、1905年10月に出版された上田敏の名訳によるポール・ヴェルレーヌの「落葉」。
秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。
げにわれは
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。
~上田敏訳詩集「海潮音」(新潮文庫)P56-57
訳者本人が注釈するように、これほど音楽的な詩はあまり見たことがない。
仏蘭西の詩はユウゴオに絵画の色を帯び、ルコント・ドゥ・リイルに彫塑の形を具へ、ヴェルレエヌに至りて音楽の声を伝へ、而して又更に陰影の匂なつかしきを捉へむとす。
~同上書P57
そして、フルトヴェングラーの繰り出すあのフレーズも、他の誰にもない、他の誰にも真似のできない唯一無二の圧倒的表現。そのことは、全曲を通じていえるのだが、特に終楽章「パッサカリア」アレグロ・エネルジーコ・エ・パッショナートは、やり過ぎの感が否めないものの(コーダの猛烈なアッチェレランド!)、泣く子も黙る絶品。初めて聴いた日から40年近く経過しても僕のその思いは一向に変わらない。
・ブラームス:交響曲第4番ホ短調作品98
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1948.10Live)
10代の僕にとってもう一つの雄、ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団による晩年のスタジオ録音盤は、強いて言うなら同じくヴェルレーヌの名詩を堀口大學が訳した「秋の歌」(1925年出版)を誦するのに近い。
秋の
ヴィオロンの
節ながき啜泣
もの憂き哀みに
わが魂を
痛ましむ。
時の鐘
鳴りも出づれば
せつなくも胸せまり
思ひ出づる
わが来し方に
涙は湧く。
落葉ならね
身をば遣る
われも、
かなたこなた
吹きまくれ
逆風よ。
~堀口大學「月下の一群」(講談社文芸文庫)P275-276
流麗かつ浪漫的でありながら、フルトヴェングラーに比較して粘りは少ない。要は、「過剰」が削ぎ落されたあくまで自然体の名演奏なのである。ちなみに、ワルター盤で最美は第2楽章アンダンテ・モデラート。静謐な歌と、クレッシェンドで盛り上がる「侘び寂」の渋みは、古今の録音(演奏)の中でも最右翼と言って良いもの。
ブラームス:
・交響曲第4番ホ短調作品98(1959.2録音)
・悲劇的序曲作品81(1960.1録音)
・運命の歌作品54(1961.1.9録音)
オクシデンタル・カレッジ・コンサート合唱団
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団
「悲劇的序曲」の出来も実に素晴らしい。
老練のワルターの、此岸への惜別の歌の如く、どこか悲しく、しかし、生命力溢れる堂々たる演奏なのである。
何十年経っても、聴き飽きない2種の名盤は人類の至宝。
ただし、上記はすべて独断と偏見によるあくまで個人的見解。
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