ブーレーズ指揮ベルリン・フィル ラヴェル 海原の小舟ほか(1993.3録音)

Je sème.
Ensuite, advienne que pourra…

私は種をまきます。
それからは何が起ころうとも構いません・・・。

ブーレーズは、最後の対談の終わりでこう語った。これは、並はずれて豊かな彼のこれまでの活動と、さらには根本的に有機的である創造過程の本質を象徴するイメージであるが、この過程は—すでに見てきたように—作曲を、ほとんど生物学的な意味での広大な増殖プロセスになぞらえるものである。
ヴェロニク・ピュシャラ著/神月朋子訳「ブーレーズ―ありのままの声で」(慶応義塾大学出版会)P168-169

作曲限らず、彼の本性に根差す指揮においても同様のことが言えるのだと思う。
何回も繰り返し聴き、幾度も記事にしているのだが、ブーレーズの指揮するラヴェルの「マ・メール・ロワ」に猛烈に感激した。特に、終曲アポテオーズ「妖精の園」には心の震えが止まらないほど精緻で美しい。

ところで、年下のモーリス・ラヴェルに師事したヴォーン・ウィリアムズの回想には次のようにある。

ラヴェルは、彼の新しい生徒が旋法について実験していたように、20代のころに音楽の新たな文法を探しもとめて、東洋の音楽形式をもちいて実験した経験があった。気がかりになるほどに虚心坦懐な人で、すぐにヴォーン・ウィリアムズに、「チュートンふうの重たい対位法の流儀に沿う必要はない」と気づかせてくれ、そのおかげで、この生徒の音楽にはこの先軽妙さがあらわれてくる—もっともチュートン流はときおり顔をだして、細やかさに欠けるときもあるのだが。「彼はいかにしてオーケストラの色彩を、線ではなく点描で描くかということを教えてくれた」とヴォーン・ウィリアムズは語っている。ラヴェルは、最近亡くなったふたりのロマン派の巨匠たち、ブラームスとチャイコフスキーを退けて、「ふたりとも少し重たい」、そして自身の音楽は「まったくもって単純、モーツァルトみたいにね」と言うのだった。
サイモン・ヘファー著/小町碧・高橋宣也訳「レイフ・ヴォーン・ウィリアムズ 〈イギリスの声〉をもとめて」(アルテス)P55

真の音楽とは何か?
難しい問題だけれど、少なくとも人々の魂にまで届く、何かしらの感動を与えてくれる、二番煎じではない、常に新たな創造のある音楽こそ、「真」なのだろうと僕は思う。

音楽は、記号化されたものを再創造する演奏者の力量にも大きく左右される。
その点、ピエール・ブーレーズの再生する音楽はいつも斬新で、聴く者の魂を揺るがしてくれる。

ラヴェル:
・バレエ音楽「マ・メール・ロワ」M60(1908-10/1911-12)
・海原の小舟M43(1904-05/1906)
・道化師の朝の歌M43(1904-05/1918)
・スペイン狂詩曲M54(1907)
・ボレロM81(1928)
ピエール・ブーレーズ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1993.3録音)

ベルリンはイエス・キリスト教会での録音。
組曲「鏡」から管弦楽化された2曲はいずれもラヴェル流の高貴な色彩に満ち、喜ばしい風景をイメージさせてくれる。無情のブーレーズの飛び切りの「情」が感じられる瞬間だ。

エキゾチックな「スペイン狂詩曲」がまた素晴らしい。

過去記事(2015年12月20日)
過去記事(2015年4月8日)

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