ブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポランのカーター作品集(1987録音)を聴いて思ふ

carter_boulez余計な手を加えず、下手な意図をせず、自然でなければならぬ。

コンサート・ホールのなかで、あるいはどこでもいいのですが、そのままの音で鳴る楽器が好きなのです。増幅されるのは、うっとうしく思えて好きではありません。人間が演奏するとおりの、できるだけ純粋な音を聞くのが好きなのです。
ハンス・ウルリッヒ・オブリスト著/篠儀直子・内山史子・西原尚訳「ミュージック―『現代音楽』をつくった作曲家たち」(フィルムアート社)P72

エリオット・カーターの、2004年のこの言葉は、音楽があくまで人間的なものであることを表わす最善のものだろう。それは、決して崇高なものではなく、創造者の「好み」に左右されるものだということ。それにしても、「できるだけ純粋な」という思いはよくわかる。誰しも、余計なものは排除し、ありのままをありのままに対峙したいと願うのである。

同様に、1974年のピエール・ブーレーズの言葉も、40余年を経た現在も大変に重い。

楽器演奏者が自分の楽器が与えてくれるもろもろの手段に満足できなくなると、彼は伝統的手段の尋常な能力を超えて、その手段を拡大しようとする傾向があります。これと同じような反応が、いわゆる電子音楽とかミュージック・コンクレートとか自称するもののスタジオのなかでも起きています。たとえばそこで、測定のための諸器具を音楽に奉仕させたことなどです。楽器についても、ほぼこのようなところがあります。楽器製作者たちによって打ちすてられた楽器の周辺的な効果や特徴を―ことの是非は別にして、ともかく楽器がそれを必要とする音楽に合わせて創り出された以上、いたって明確な美学的な根拠によって打ちすてられたのですが―、中心的特徴とするようなぐあいに利用するやりかたです。私にはこのような見地が驚くほど深い考えによるものとは思えません。
ピエール・ブーレーズ著/店村新次訳「意志と偶然―ドリエージュとの対話」(法政大学出版局)P181-182

現代音楽といえども、余計な手を加えず、下手な意図をせず、自然でなければならぬとブーレーズも訴えるのだ。
ブーレーズが録音したカーター作品集は、まさに二人の天才の信念の掛け合わせとなる佳作である。

カーター:
・オーボエ協奏曲(1986-87)
ハインツ・ホリガー(オーボエ)
・フルートとクラリネットのための「エスプリ・リュド/エスプリ・ドゥ」(1984)
ソフィー・シェリエ(フルート)
アンドレ・トゥルーテ(クラリネット)
・エリザベス・ビショップの6つの詩によるソプラノと室内オーケストラのための)「見つめる鏡」(1975)
フィリス・ブリン=ジュルソン(ソプラノ)
・4つの楽器による5つのグループのための「パントード(五極真空管)」(1985)
ピエール・ブーレーズ指揮アンサンブル・アンテルコンタンポラン(1987.12録音)

名手ホリガーを独奏者に据えるオーボエ協奏曲の、壮絶な管弦楽に対し、精妙かつ静謐なオーボエに戦慄を覚える。果たしてこの協奏曲が、「純粋な音」に満ちるのかどうなのか、そして実際のホールでどのように響くのか、確認したいところ。

わたしのように長く生きていると、20世紀から先にどんな展開があるか、予想するのは困難に思えるのです。たとえば20世紀の初めには、シェーンベルクやストラヴィンスキー、バルトークらの時代がありました。わたしが大きくなったときにはみんな時代遅れになっていて、プーランクやオーリック、ヒンデミット、クルト・ヴァイルらが登場していました。アイヴズが演奏されたかと思えば、次の時代には時代遅れになってしまいました。これらの音楽が戻ってきたのは、ようやく第二次大戦後になってのことです。そんなことになるなんて、誰も予想できなかったでしょう。そして第二次大戦の前には、ヒトラーがモダン・ミュージックをタブーにしてしまうことも、ソヴィエト連邦がショスタコーヴィッチのスタイルを完全に変えてしまうことも、誰も予想していなかったでしょう。どれひとつとして、誰も考えはしなかった・・・。
ハンス・ウルリッヒ・オブリスト著/篠儀直子・内山史子・西原尚訳「ミュージック―『現代音楽』をつくった作曲家たち」(フィルムアート社)P57

世界が突発的に変化をすることを、そして、諸行無常であることを、当時95歳のカーターは当然知っていた。それならば、晩年になって一層の創作意欲をみせた彼の作品の多くはまさに「いまここ」を意識した産物だと言えまいか。

2本の楽器によって奏される「エスプリ・リュド/エスプリ・ドゥ」も妙に生々しい。
そして、エリザベス・ビショップの詩をテクストにした「見つめる鏡」は、カーターの真骨頂。音楽のこの回りくどい深遠さはどこかで体験したものだと直感したが、なるほど彼はドストエフスキーの方法に(無意識下であるにせよ)影響を受けているのかもしれない。

ドストエフスキーには3つか4つの論点がありますが、そのひとつは、理想主義的な視点を人々が持っているのに、それが実行されると破滅してしまうというものです。
~同上書P64

矛盾に満ちた世界を直観し、おそらくそれを正しく音化しようとしたカーターの音楽は驚異的な密度を誇る。
視覚要素が重要であろう「パントード」は、是非とも実演に触れてみたいところ。

 

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2 COMMENTS

雅之

>人間が演奏するとおりの、できるだけ純粋な音を聞くのが好きなのです。

というのも、エリオット・カーターの主観的な思い込みだと思います。

なぜなら、楽器とは所詮「固有の音声を作成し増幅する機械」であって、増幅手段が何であろうと人間の声そのものではないことに変わりはないからです。

それにしても、エリオット・カーターは長寿だったうえに晩年まで作風がコロコロ変わり、一言では語れない作曲家ですよね。私には不思議で謎だらけです。

>矛盾に満ちた世界を直観し、おそらくそれを正しく音化しようとしたカーターの音楽は驚異的な密度を誇る。

音の理想を追い求めれば追い求めるほど理想は逃げ水のように遠ざかるという意味で、ドストエフスキーの論にも似て、音楽もまた「パラドックス」です。

「世界の不思議な音-奇妙な音の謎を科学で解き明かす」トレヴァー・コックス (著) 田沢 恭子 (翻訳)  (白揚社)

https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E4%B8%8D%E6%80%9D%E8%AD%B0%E3%81%AA%E9%9F%B3-%E5%A5%87%E5%A6%99%E3%81%AA%E9%9F%B3%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%A7%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99-%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/4826901895/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1471176521&sr=1-1&keywords=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%AE%E3%81%B5%E3%81%97%E3%81%8E%E3%81%AA%E9%9F%B3

を読んで、ますますそう確信しました。

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岡本 浩和

>雅之様

>エリオット・カーターの主観的な思い込みだと思います。

確かにおっしゃる通りです。
人間は長く生きれば生きるほど、思い込みも強くなるのかもしれません。

カーターに限らず現代音楽についてはまだまだ僕も勉強不足です。
作風の変化の度合いについてもストラヴィンスキー以上ですよね。あるいは、ストラヴィンスキーをある種規範にしているのかもしれません。

>音楽もまた「パラドックス」です。

それにしてもまた興味深い書籍のご紹介をありがとうございます。
世界は「パラドックス」の中にあるということですね。

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