マリア・カラスの「ファースト・レコーディングス」(1949.11録音)を聴いて思ふ

イタリア語で歌われる「イゾルデの愛の死」に多少の違和感を覚えながら、いつしかワーグナーの音楽に溺れ、しかもこれを若き日のマリア・カラスが歌っているのだと思うにつけ、言葉の限界をあらためて思うと同時に音の世界の無限の拡がりを想像した。
すべては聴く者の、すなわち捉える者の思い込みだといえる。
ならば、いかに表現するのか?
音楽の芯にある神髄を感じたいものだ。

カラスの最初の夫であり、ヴェローナの実業家であったジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニの献身を思った。

マリアは、私に利用価値があるからじゃなくて私が私だから好きになってくれた。そんな気がしたよ。52年の“長い”人生のうちで、あんなにうれしいことはなかったね。もちろん、その気持ちはしっかり通じあっていた。それに、私は歌の一つも聴かないうちから彼女に好意(たぶん愛情じゃなかったと思う)をもった。だから、私は芸術以外のあらゆる手段で(音楽は好きだが専門家ではないからね)彼女の仕事を手伝うことをいとわなかったし、そうしたくてたまらなかったんだ。
ステリオス・ガラトプーロス著/高橋早苗訳「マリア・カラス―聖なる怪物」(白水社)P89

一方のカラスのメネギーニに対する最初の印象は・・・。

ポマーリから紹介されたときの彼の第一印象は、正直で誠実な人という感じで、悪くないと思ったわ。でも、そのあと彼のことは忘れてしまったの。並んでテーブルについていたわけではなかったし、私は眼鏡をかけていなかったので、彼がどこにいるのかよくわからなかったんですもの。・・・私はバッティスタとヴェネツィアに行って、その旅の最中に二人の恋が始まったのよ―一目ぼれではなかったけれど、二目ぼれだったのはたしかね。
~同上書P89-90

どんな理由にせよ、また、未来がどんなになろうとも、最初の時点では二人は相思相愛だったのである。カラスの「愛の死」にあるのは、まさにその愛の炎だ。魂に一度点火された火はめらめらと揺れ、光を放つ。何という情熱!

マリア・メネギーニ・カラス/ファースト・レコーディングス
ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」
・イゾルデの愛の死(優しくかすかな彼の微笑み)
ベッリーニ:歌劇「ノルマ」~
・清らかな女神よ
・美しいときがふたたび帰ってくれば
ベッリーニ:歌劇「清教徒」~
・ああ、私に希望を返して
・あなたのやさしい声が(狂乱の場)
・いらっしゃい、愛しい人、月が空にかかっています
マリア・カラス(ソプラノ)
アルトゥーロ・バジーレ指揮トリノ・イタリア放送交響楽団(1949.11.8-10録音)

十八番の歌劇「ノルマ」第1幕から「清らかな女神よ」の、後年の大器を感じさせる堂々たる歌唱。この湿り気のある、そしてまだまだ不安定ながら色香漂う歌に、恋する心の大切さを思う。

会えなくてどれほど寂しいか、あなたにはわからないでしょう。あなたの胸に戻れる日が待ちどおしい・・・。イゾルデを歌えば歌うほど、彼女がすばらしく見えてきます。衝動的な役ですが、私は気に入っています・・・。ここでの滞在が終わっても、私の記憶に残るのは、スコアを目の前にしている私にセラフィンが何を期待しているかということだけでしょう。そのあとは、スコアを独力でおぼえきらなければならないのです・・・。きのう、セラフィンがカトッツォとの電話で私のことを夢中で話していたので、感激して涙が出ました・・・。バッティスタ、どんなにそばにいてほしいことか・・・。
~同上書P97

この心情吐露と交錯するように赤裸々な、歌劇「清教徒」第2幕の「狂乱の場」でのカラスの歌の深み。
恋とは実に素晴らしい。

 

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2 COMMENTS

雅之

フルトヴェングラーはイタリア語に堪能だったそうですが、カラスとの接点は少しもなかったんでしょうかね。お互いを話題にしたことは? この方面不勉強です、よろしければ教えてください。

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岡本 浩和

>雅之様

僕も不勉強でわかりませんが、カラスが「一番共演したい指揮者は?」という問いに、フルトヴェングラーと即答したそうですから、少なくとも演奏は聴いていたのだと思います。
接点はたぶんなかったのでは・・・。

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