アヴェ・マリア

verdi_requiem_gardiner.jpg午前中、大久保地域センターで1ヶ月ぶりに「ショートセミナー」を開催した。基本は既受講者の継続学習の意味合いで実施するもので、都度参加者の様子を見ながら、テーマを臨機応変に変えながら対処し、わずか2時間余りの中で、最大限の効果を得ていただこうという趣旨で開催している。今回はとても素直で前向きな方々にご参加いただけたので、すこぶる調子が良かった。ショートセミナーの意義について少々悩んでいた時期でもあり、やっぱりどんな形であろうと、セミナーのエッセンスを手短かに体感していただける場を設けることは重要だと確認した次第。ちなみに2日間の本セミナーは次回8月22日(土)&30日(日)、次々回9月20日(日)&21日(祝)に開催予定。ご興味ある方はぜひ!

相変わらずヴェルディ漬け。こんなことは今までの人生で初めてのこと(笑)。来週末の講座のため参考資料(例えば「作曲家◎人と作品 ヴェルディ(小畑恒夫著)」)をひもときながら、この天才オペラ作曲家の人生を俯瞰していくのだが、下手な成功哲学書を読むよりよっぽど面白い。ヴェルディの当時の国民的人気は相当なもので、新作が発表されるたびの聴衆の狂騒振りが細かく描かれていて、彼の音楽をBGMに聴きながら読んでいると興奮し、こちらも「やる気」になってくるのだから、不思議なものである。もともと幼い頃決して裕福でない家庭に育った彼は、ハングリー精神旺盛で、彼の恐ろしいまでの創作活動の源泉が「お金を稼ぐ」という目的であったことがよくわかる。そして、稼ぎに稼いだ彼は、晩年、「音楽家のための憩いの家」をはじめ、様々な慈善事業に投資し、世のため人のためという奉仕活動に力を入れるようになる。このあたりは、今の人気スポーツ選手やビジネスで大成功した富豪と一致する。彼はクリエイティヴィティだけでなくマネジメントをはじめとするビジネス・センスにも長けていたことがよくわかり、芸術家には珍しい両輪をバランスよく持っていた天才だったのである。

ヴェルディはオペラ作曲家を自負しており、いわゆる器楽曲は昨日紹介した「弦楽四重奏曲」以外公に発表したものはないようだが、親友の詩人アレッサンドロ・マンゾーニの1周忌のために書いた「レクイエム」はことのほか有名で、これほど劇的な宗教音楽は後にも先にもないほどの傑作だと僕は思う。だいぶ前に購入し、例によってほとんど聴かずにしまってあったガーディナーによるピリオド楽器での初録音盤の存在を思い出して聴いてみた。当時の彼の心境を思い起こしながら聴くと、一層感動的な作品である。
ところで、僕がこの音盤であらためて発見したのは、カップリングの「聖歌四篇」。今まできちんと聴いていなかったので、これには吃驚した。1897年、直後の妻ジュゼッピーナの死を予感するかのごとく、最晩年のヴェルディが書いたといわれる「スターバト・マーテル」を含む4つの静謐で荘厳な音楽。

ヴェルディ:聖歌四篇
・アヴェ・マリア
・スターバト・マーテル(ヴェルディ最後の作品)
・処女マリアへの賛歌
・テ・デウム
ドンナ・ブラウン(ソプラノ)
モンテヴェルディ合唱団
ジョン=エリオット・ガーディナー指揮オルケストル・レヴォリュショネール・エ・ロマンティーク

特に、アカペラ混声合唱で歌われる第1曲「アヴェ・マリア」は、こんなに美しい音楽があるのかと思われるほど。

Ave Maria, gratia plena,
Dominus tecum,
benedicta tu in mulieribus,
et benedictus fructus ventris tui Jesus.
Sancta Maria mater Dei,
ora pro nobis peccatoribus, nunc, et in hora mortis nostrae.

Amen

めでたし、聖寵みちみてるマリア、
主御身と共にまします。
御身は女のうちにて祝せられ、
御胎内の御子イエズスも祝せられたもう。
天主の御母聖マリア、
罪人なる我らの為に、
今も臨終の時も祈り給え。

アーメン。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
>もともと幼い頃決して裕福でない家庭に育った彼
ここのところが非常に重要だと思います。
もともと2代目、3代目裕福な環境に育った子供は、創業者の覚悟や心意気などを理屈ではわかっていても体で理解していないので、上っ面だけの机上の理想論、観念論だけの人間になりがちなのは、現在の我が国の政治家を見ても明らかです。
最近松下幸之助さんのことについて今更ながら興味があり、いろいろ関連本を読んでいるのですが、私だけではないようですね。7月16日朝日新聞の社外筆者の匿名執筆コラム「経済気象台」から・・・。
・・・・・・最近、松下幸之助さんの本がよく売れているようだ。不透明な経済状況のなか、先人に学ぼうというのは意味があることと思う。だが、本人を経営の神様に祭り上げたり、天才と呼んだりするのはどうか、と思われる。
そもそも、幸之助さんのどこが優れていたのか。突き詰めていくと、誠にそれが分からないのである。
彼にいわゆる「学識」はあったか。小学校4年中退であるから、世間的には無学といえる。では「金」はあったか。和歌山の旧松下家は幸之助さんの父の時代に破産するなど、厳しい金銭事情だった。頑健な「体」を持っていたかというと、無理のきく体ではなかった。
これらどれ一つを取っても、人生の敗北者たる口実には十分なものである。幸之助さんのすごさは、これらの悪条件を、自ら飛躍の糧としたことである。
無学だから彼は熱心に人の話を聞いた。誰に対しても姿勢を正し、身じろぎもせずに何時間でも傾聴した。この間、手や足を組むなどすることもなかった。
彼は金もうけが心底から好きだった。守銭奴ではなかったが、金もうけの工夫ほど楽しいものはない、とかたく信じていた。体が弱いので、宮仕えは早々にあきらめ、自立を志した。
こう見てくると、幸之助さんが我々に示したものは、決して恵まれない青年でも、工夫と努力をすれば世界企業を作りうる、ということであった。
米シリコンバレーの父と呼ばれたターマン氏はよく、若い起業家たちに「出来ないということは、やらないということだ」と叱咤(しった)したといわれる。
まさに同じことを語っているように思われる。(可軒)・・・・・・
しかし元々裕福な家庭に育った人に、松下幸之助さんのようなハングリー精神をもった生き方をしろというのは土台無理な話です(だってそんな必要ないもん。世襲議員も我々も、同じ穴のムジナということをよく自覚するべき)。今の日本の社会で一番の問題は、貧しい家庭の子供や就職できない若い世代で真に成功したい人達に、チャレンジの機会を与えなさすぎることであり、この部分に金持ちが見て見ぬふりをしている限り、日本は世界の負け組になる一方だと思っています。まさに「斜陽」です。人口飽和状態の中での機会不均等は、本人の「自己責任」の問題ではなく、社会の仕組みの問題です。
ご紹介の盤は未聴ですし、「聖歌四篇」は曲もよく聴きこんではおりませんので、この機会に勉強したいです。
ヴェルディ「レクイエム」は1981年9月3日、アバド指揮ミラノ・スカラ座の来日公演を聴き、若い私は腰が抜けるほど感動したものです。これがヴェルディの曲の、生涯最高の実演体験であり原体験です。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
松下幸之助氏のこの話、よくわかります。雅之さんのご意見「人口飽和状態の中での機会不均等は、本人の「自己責任」の問題ではなく、社会の仕組みの問題です。」にまったく同感です。
「貧しい家庭の子供や就職できない若い世代で真に成功したい人達に、チャレンジの機会を」つくるしくみを作らないとですね。
僕は、教育のシステムを抜本的に変えることも大切だと思っています。横並びの金太郎飴的な教育で、「チャレンジ」精神を失くしている若者が多いと思うのです。まぁ、微力ながらそこに一石投じたくてセミナーをやってもいるのですが。
「聖歌四篇」は僕もまともに聴いてこなかったのですが、良い曲です。
しかし、アバド&スカラ座の「レクイエム」を実演で聴かれているとは!!若き日に体験するとほんとに腰が抜けるんでしょうね。

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