何と冒頭アダージョの部分で8分18秒!!
このひとつひとつの音を丁寧に鳴らし、想いを込めて粘る音楽に、ついに僕は目覚めたのかも。大いなる海を思わせる、否、大宇宙の大いなる呼吸を想像させる音の洪水にずっと身を委ねていたいと思った。それくらいに人間的な、愛情深い音楽(だと、賛否両論あれど、僕は思う)。
こういうテンポで聴くと、音楽は実に細部まで理解できる。
その分、全体の構成が甘くなることはあり得るが、レナード・バーンスタインの棒は手綱をぎゅっと引締め、終始緊張感を失うことがない。決して愚鈍な演奏でなく、またシベリウスの真髄から遠いものではないだろう。
ゲーテの言葉を引く。
どういうわけかこの詩とバーンスタインのシベリウスが(僕の中では)つながるのである。
見るために生まれ
見るを勤めとし
塔の守りをしておれば
この世はまことにおもしろい。
遠くを眺め
近くを見
星を見 月を見
森を見 鹿を見る。
すると万物のうちに
永遠の飾りが見え
すべてがおれの気に入るごとく
おれ自身またおれの気に入る。
さいわいなる両の眼よ
おまえが見てきたものは
それが何にせよ
じつに美しくあった!
「見るために生まれ―塔守リュンコイスの歌」
~檜山哲彦訳「ドイツ名詩選」(岩波書店)
微に入り細を穿つ(?)演奏は世界を投影し、美しい。
最晩年のバーンスタインの音楽は生命力溢れるものだ。
シベリウス:
・交響曲第5番変ホ長調作品82(1987.9Live)
・交響曲第7番ハ長調作品105(1988.10Live)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
生きることの悲哀があり、涙がこぼれる。
幾分テンポを速めるウン・ポケッティッシモ・メーノ・アダージョにおいても、音楽はやはり遅々として粘る。また、ポコ・ラレンタンド・アル・アダージョでは、カオス的な響きを見せるものの、音楽は宇宙的拡がりを保ち、盛り上がってゆく。
そして、アレグロ・モルト・モデラートにおいて、その音楽は透明感を獲得し、いよいよ調和へと引きずり込まれ、僕たちを圧倒する。
さらに、ヴィヴァーチェによる第2スケルツォからは、バーンスタインの真骨頂。特に、アダージョで冒頭主題が再現されるシーンの懐かしさと美しさは筆舌に尽くし難い。指揮するバーンスタインがうなり、咆える。
憂いよ、去れ―ああ、されど、死すべき人間なれば、
生ある限り、憂いは去らず。
避け難きものとあらば、来たれ、愛の憂いよ、
他の憂いを追いて、なんじひとりわが胸を領せよ!
「甘き憂い」
~高橋健二訳「ゲーテ詩集」(新潮文庫)P149-150
91歳という天寿を全うしたシベリウスは、55歳以降新作をほぼ発表しなかった。
(死ぬまで脳内を占めていたであろう交響曲第8番完成の圧力に)それこそ憂いの多かったことだろう。彼も「愛の憂い」を求めて生きたのだろうか。
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どういうわけかオオサンショウウオとバーンスタインのシベリウスが(僕の中では)つながるのである。
・・・・・・1mを越える大物は一体何歳くらいなのでしょう?100年くらい生きるといわれているオオサンショウウオですが、年齢や寿命については推測の域を出ません。
一人の研究者ががんばって調べても、人間の方が先に死んでしまいますから・・・オオサンショウウオの全貌を解明するには、世代を越えた地道な調査・研究が欠かせません。・・・・・・「日本オオサンショウウオの会」サイトより
https://www.giantsalamander.net/untitled-c1mlx
「山椒魚戦争」 (岩波文庫) カレル チャペック (著), Karel Capek (原著), 栗栖 継 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E5%B1%B1%E6%A4%92%E9%AD%9A%E6%88%A6%E4%BA%89-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%AB-%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%9A%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4003277414/ref=sr_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1494936919&sr=1-3&keywords=%E5%B1%B1%E6%A4%92%E9%AD%9A
>雅之様
なるほど、オオサンショウウオですか・・・。
そういわれてみるとそんな気もしないでもないですが・・・(笑)
ただし、この生物の生態にまったく詳しくなく、ご紹介いただいた書籍も面白そうなので、
あわせて勉強させていただこうと思います。
http://classic.opus-3.net/blog/?p=23096#comments
先日の「美しいものを」は早速読みました。
あの時代の空気感までも感じることができて素晴らしいですね。
ありがとうございます。
じつは前日、『花森安治の仕事―デザインする手、編集長の眼』展
https://www.kurashi-no-techo.co.jp/blog/information/20170207-2
を、碧南にある美術館でやっていたのでドライブがてら行ってきまして、その仕事内容の凄さ、素晴らしさ(表紙絵等の原画など特に)、打ちのめされました。あの本は美術館で記念に購入した中の一冊です。
花森安治の生き方は、多才さと潔さの両立が、じつにカッコいいですね。
・・・・・・これは、ひとからよく言われることで、自分でいうのは、すこし変なのですが、もしかして、この雑誌に、ほんのすこしでもなにか清潔な感じがあるとすれば、それはこの雑誌に、一つも広告がのっていないことではないかと思います。
おそらく一般の雑誌で、広告のないのは日本でも、世界でも、めずらしいことなのでしょう。どうして広告をのせないのか、とよく聞かれるのでございます。
広告をのせれば、こんな雑誌でも、いくらかの広告費がいただけるし、それだけ経費のおぎないになることは、いくらこの道に日の浅い私たちでも、もちろん想像のつくことでございます。
それを知りながら、出来ないでいるのは、せめてもの、この清潔な感じを、いつまでも失いたくないと考えているからで、これは、たとえ何百万円の広告費をいただけるとしても、それとひきかえにはしたくない、というのが、私たちみんなの必死の気持ちでございます。
もとより、広告をどうのこうのという気持ちは少しもございません。ただ、せめてこのような雑誌一冊、隅から隅まで、活字一本まで、私たちの心ゆくまで作り上げたいとおもうからなので、この我がままも、通せるだけは、通してまいりたいと考えております。・・・・・・(暮しの手帖 第9号 あとがきより)
>雅之様
そういうことだったんですね。
先日まで世田谷美術館でやっていたのに、知らなかったのは実に残念です。
>花森安治の生き方は、多才さと潔さの両立が、じつにカッコいいですね。
ほんとですね。広告のないなんて見たことがありません。