午後、ふと思い立って明治神宮に出掛けた。特に理由はない。ただ何となく気分転換に歩こうと思い、家を出たらそっちの方向に足が向いていたというだけ。明治通りを真っ直ぐ渋谷方面に直進し、代々木のところで右折するとそこはもう「明治神宮」。ものの30分弱で到着してしまうのだから意外に近い。
ただ、今日の夕方近くの「神宮」の「気」はいま一つで、長居せず(本当はベンチにでも腰をかけて読書でもしようかと目論んでいたのだが)本殿にお参りだけしてすぐに引き返した。
ぶらりと歩きながら考えたこと。
自分がやるべきことは何なのか。「人生支援」と謳っている限りはそこに執着するということ。5月は諸般の事情で「人間力向上セミナー」を開催できなかったので、何としても6月はやろう。コンスタントに継続していかないと「感覚」が鈍ってしまう。そして何より(大袈裟だが)必要としている方々のチャンスを奪う行為になりかねない。何だかとりとめもなく整理のつかない様子で、頭の中をいろんな考えがうようよと巡りめぐった。まずは意思決定。
ここのところ毎朝、チベット体操後の瞑想中にいろんな「閃き」が生じる。6月末予定の「リーダーシップ・ワンポイント研修」のコンテンツをどうすればよいか。何せ2時間しかない。しかも20名ほどの中間管理職の方々を相手に「気づき」を与えなければならない。
10月の滋賀短期大学での「クラシック音楽講座」の切口も咄嗟に落ちてきた。いずれもまだまだ断片的な欠片のようなものなので、少しずつ具体化して形にしていかなければならないが・・・。
多分音楽家もこのように楽曲を創作していくんだろうな、と思った。
断片的な楽想が頭に浮かび、そしてそれを形式にのっとりながら、しかも聴衆に受け入れられるように曲にしつらえていく。天才モーツァルトなら数時間で大曲を作ってしまうのだろうが、凡人はそうもいかない。(例えばマーラーのように何度も修正を加えながら、オーケストラへの指示も緻密に指定し)時間をかけ推敲を重ねて表に出せるモノを創っていく。
マーラー:交響曲第9番ニ長調
レナード・バーンスタイン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1979.10Live)
バーンスタイン&ベルリン・フィル一期一会の大記録。天才バーンスタインが凡才(?)マーラーの音楽を徹底的に昇華し、至高の名演奏を成し遂げた一世一代のパフォーマンス。噂によるとカラヤンの妨害で1992年になるまでレコード化できなかった代物らしい。僕はどちらかというと以前取り上げたACO盤を好む。このベルリンLiveはせっかくの貴重な音源を操作しているようで、(すでにどこでも語られていることだが)演奏会当時NHK-FMで放送された伝説の熱演の印象とは程遠いところが惜しいのだ。今僕の手元にはその時のエアチェック・テープはない。よって確認することはできないが、マーラーの音楽にはまり出したティーンエイジャーの頃の浮ついた感覚がそのように思い込ませていたかもしれないので、ひょっとすると単なる耳の錯覚かもしれない・・・。
マーラーの第9交響曲のフィナーレは「個」と「宇宙」をつなぐ「祈り」の音楽である。R.シュトラウスの交響詩「死と変容」に負けず劣らず、というよりそれ以上に「死と変容」という標題が相応しいように僕は思う。
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