みんなの通る道に草は生えない

mozart_prager_walter_vpo.jpg静岡県小山町立小山中学校第2学年社会体験学習の一環で、本日2時間ほど「キャリア教育研修会」を担当させていただいた。中学生相手の講座は初めてである。コンテンツはすべてお任せということだったので、自分が思うようにやらせていただいたが、14歳の皆にとってはどうだったのだろうか?ひとつ残念に思ったのは、なかなか発言が出ないこと。とはいえ、自分が中学生当時そういう場で自由に発言できたかといえばそうじゃないわけだから、それも致し方なし、まぁ、厳しく採点して70点くらいの出来だったかなと反省しきり、である。

ところで、どんな内容にしようか今朝考えていたときに、突然小学校時代のことを思い出した。いまだに家族の中では語り草のエピソードなのだが、卒業文集だったかで書いた「将来の夢」にまつわる話。おそらく山奥の小さな村の生まれ育ちということもあるだろうし、あるいは長男として生まれたという背景も絡んでいるのだろうが、小学校の真ん中あたりくらいから僕は随分大人しい性格になった。そう、引っ込み思案で、人見知りで、何か新しいことにチャレンジするのが苦手で、そういう意味では取り柄のない目立たない子どもだった。とにかくなるべく順応し、当たり障りのない行動を心がけるようになっていった。そんな僕が書いた夢は次のようなものだった。
「大学には行けなくても良い。母屋の隣の離れを建て替えたい」
周りの友達はみな「医者になりたい」とか「トラックの運転手になりたい」とか、とにかく子どもながらの「夢」を語っているにもかかわらず、僕はそんなちっぽけな何も考えていないようなことしか書けなかった。そして、その「夢」に対して、当時の校長先生がひとりひとりに対して返答入りの色紙をプレゼントしてくれた。その言葉がまた想いに溢れた重い言葉であった。

「みんなの通る道に草は生えない」

名言である。12歳の子どもにはいまひとつピンと来なかったが、家に帰って親に説明してもらったと思う、やっとその意味を理解し何だか表現し難い悔しさのようなものを感じた、そんな記憶がまざまざと蘇ってきたのである。その後僕が東京の大学に入り、そのまま実家には帰らず、東京で就職をし、そして今のような仕事をするに至るその背景、深層心理には、ひょっとするとこのことが大きく影響を与えているのかもしれないと思う。ともかく「人と違いたい」のである。同じように生きたくないのである。

小学校や中学校時代、いわゆる思春期の頃の原体験というのは本当に大きい。どんな先生に出逢い、そしてどんな体験をするかによってその後の人生が大きく変わる可能性を持つ。子どもたちに少しでも影響を与えられる授業ができたら良いなと思って臨んだが、どうだったのか・・・。彼らの本音をぜひとも聞いてみたいものである。

モーツァルトの人気にいよいよ翳りが見え始める1786年末に完成される「プラハ」交響曲。その初演では、鳴り止まない拍手と同時に「『フィガロ』から何か1曲を!」とどこからともなくお声がかかったそうである。モーツァルトがおもむろに弾き出したのが「もう飛ぶまいぞ、この蝶々」のメロディ。しかもそれを即興で12の変奏曲に展開して見せたというのである。残念ながらこの変奏曲は楽譜としては残されていない。何とも惜しい・・・。

モーツァルト:交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」
ブルーノ・ワルター指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1955.11.6Live)

僕は、このシンフォニーの持つデモーニッシュな意味深いうねりを湛えた暗さと、天衣無縫な明るさが渾然一体となった音調に極めて深い愛着を感じる。フルトヴェングラーがもう少し長生きし、ステレオでこの曲の録音を残していてくれたなら、人類の至宝となるべき名演奏が生まれていたのではないだろうか。しかし、それは叶うべくもない。その渇きを癒すに、ワルターのこの実演が最右翼だろう。


4 COMMENTS

雅之

おはようございます。
現代の小中学生と我々の時代の小中学生では、入ってくる知識の情報量がまるで違いますよね。我々の子供時代はまだ暇だったので、大人の今に比べ1日や1年が、うんと長く感じたものですが、塾や習い事や部活で分刻みのスケジュールの、特に都会の子供は、我々とは根本的に感性の育みかたが異なっているのでしょうね。中3と小6の我が子を見ていても、つくづくそう思います。
性についての情報なんかも、情報に溢れタブーが少なくなった今の子には、我々の時のようなドキドキ感は少ないのでは・・・。つまりは供給過多により情報の価値が下がるインフレ現象ですね。無感動の最大の根本原因もそこにあるのではないでしょうか?
斯様に、時代とともに、人の感性の最大公約数や世論は変化します。演奏家も「時代の子」です。会場にいる、その時代の人々の「空気」に波長を合わせて演奏するのは当然ですよね。
モーツァルト初演当時の演奏と、第二次世界大戦の戦禍で心が疲弊した人々を慰めるモーツァルトの演奏と、1980年代後半東京でのバブルに踊り享楽を極めている人々に聞かせるモーツァルトの演奏では、違っていなければ嘘です。「この曲のベスト○○CD」とか「この曲のCDは、これ1枚を備えていればよい」といった評論家の御託宣はナンセンス・無意味です。
ワルターやフルトヴェングラーの演奏を今聴くという行為は、1970年代の日活ロマンポルノ映画を、性情報が氾濫している平成21年の現代人が観るという行為と似ているのかも・・・。今観ると、楽しむポイントを上映当時とは180度変えざるを得ません。何より刺激に慣れきったこちら側の「性」への切実さやスリル感が、当時とはすっかり変わってしまっています。でも確かにあそこには、今のAVにはない、男女関係の機微や情緒が描かれていました。
私がお薦めする「プラハ」は、やっぱり70年代後半のベーム&ウィーン・フィルの演奏。本日はDVDで・・・。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3655934/ref/3655933_1
ベームのモーツァルトを聴いていた青春時代のあのころは、音楽に今よりずっと飢えていて、真面目で切実でしたので・・・。

返信する
岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
雅之さんはさすがにうまいこと表現されますね。
>、我々とは根本的に感性の育みかたが異なっているのでしょうね。
そうなんでしょうね。でも、昨日は僕が想像していた以上に真剣に取り組む生徒が多かったですね。結局先生次第だと思います。こればっかりは選べないですから。ある意味運です。
>会場にいる、その時代の人々の「空気」に波長を合わせて演奏するのは当然ですよね。
>「この曲のベスト○○CD」とか「この曲のCDは、これ1枚を備えていればよい」といった評論家の御託宣はナンセンス・無意味です。
おっしゃるとおりです。
>やっぱり70年代後半のベーム&ウィーン・フィルの演奏
このDVDは残念ながら観ておりません。しかし、先日から話題にしているベームの晩年の演奏とあらば興味深いですね。観てみたいです。

返信する
やいっあん

良く覚えているんだねぇ それにしてもあの山本校長先生にはビックリと感心した 全員に書いて下さったのを見せていただいたが 実に的確に夢と未来志向を示唆されていた でも解説しないと分らないのがあったような気がするなぁ 役員をしていたので良くお話ししたが当時息子さんは東大生だった 

返信する
岡本 浩和

>お父さん
記憶力は良いからね。
>でも解説しないと分らないのがあったような気がするなぁ
そうそう、僕のもそうやったね。
しかし、他の人たちのは残念ながら全く覚えがない。
あれで僕の人生が変わった気がする。

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む