チャレンジ

mozart_19_abq.jpg10月もいよいよ最終日。第31回「早わかりクラシック音楽講座」。これまでの講座でも何度か採り上げているモーツァルトの、湯水の如く溢れる楽想に任せて書き上げた神懸り的な音楽が集中する1784年~86年という人生の絶頂期にフォーカスし、3時間ほど楽しく過ごさせていただいた。ピアノ協奏曲、弦楽四重奏曲、オペラからいくつかを聴き込んでゆくが、それにしても人間業とは思えない、あらゆる感情が網羅された極めて密度の濃い「楽音」が響き渡る。森羅万象を超える宇宙の音楽である。

ロンドンから1年数ヶ月ぶりに帰国したふみ君が久しぶりに参加してくれたのだが、第23番の協奏曲を聴いて、「なるほど」という上手い表現でこの音楽について感想をくれた。(多少言い回しは違うが)曰く、「キャッチーなメロディを織り交ぜながら、決して大衆に迎合するでもなく、明るさの中にも暗さを内包する完全な音楽」。他の皆さんもこの曲にはすっかり魅せられたようで、おススメとしてアシュケナージが弾き振りでフィルハーモニア管弦楽団と録音した音盤を紹介して差し上げた。ともかくこのコンチェルトに関しては僕の中でこの録音に止めを刺す。意外かもしれないが、それくらいにこのアシュケナージ盤は突出している。何の変哲もない中に、モーツァルトの愉悦、哀しみ、あらゆる感情が横溢する見事な演奏。

ところで、1785年1月15日、モーツァルトはヨーゼフ・ハイドンを自宅に招き、後に献呈することになる6曲のハイドン四重奏曲から後半3曲を披露している。それを聴いたハイドンが父レオポルトに語った言葉。これ以上の賛辞はなかろう。
「誠実な人間として、神の前に誓って申し上げますが、ご子息は私が名実共に知っている最も偉大な作曲家です。様式感に加えて、この上なく幅広い作曲上の知識をお持ちです」

年を追うごとに深化してゆくその音楽を前にハイドンも度肝を抜かれたことだろう。例えば、当時の一般聴衆には到底理解されなかった、冒頭の部分が誤植ではないかと疑われもしたハ長調四重奏曲、通称「不協和音」についてハイドンは何を思ったのか?まさにこの音楽をして先の感想を語らせたのか・・・。カオスから蠢くように生成される暗澹たる序奏部から一転明々朗々たる主部に移る様こそ、人間、自然、宇宙のすべてを飲み込む「生命」を髣髴とさせる。

モーツァルト:弦楽四重奏曲第19番ハ長調K.465「不協和音」
アルバン・ベルク四重奏団(1977.6.24-26録音)

まだ彼らがウィーン・アルバン・ベルク四重奏団と名乗っていた頃のスタジオ録音盤。瑞々しさと若々しさがそこかしこに聴いてとれる名演奏。

その伝記などを辿ってみると、モーツァルトは非常に刹那的に生きていたように思える節がある。確かに悪く言えば「刹那的」だろう。ただし、見方を変えれば、それは「今をとにかく謳歌した」ということだ。その上、常にチャレンジングで、新しいものを生み出そうとした。幸か不幸かそのお蔭で余りに作風が時代の先を行き過ぎ、人気が低迷し、挙句食べるのにも困るほどの困窮生活を強いられることになるのだが。

「モーツァルトは生活のためでなく、純粋に自身の心の声に従って芸術作品を生み出そうとしていたのですか?」参加者からそんな質問を受けた。僕にも本当のところはわからない。ただし、彼の作品の多くは実際予約演奏会で発表するために書かれているゆえ、やはり「お金」のためだったことは間違いないだろう。モーツァルトは決してケチではないが(つまり守銭奴ではないが)、人一倍お金は好きだったよう。金のために動いたら創造力など一瞬にして取上げられそうそうなものだが、そのあたりがこの天才の不思議なところ。最低でも1ヶ月に1作の協奏曲と、ほかのジャンルの楽曲を次から次へと書き上げるのだから、「上」から何かが降りてきていたのだろうとしか思えない。

未来(20世紀現代音楽)と過去(バッハ)とが交錯する。


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。
>おススメとしてアシュケナージが弾き振りでフィルハーモニア管弦楽団と録音した音盤を紹介して差し上げた。
アシュケナージは美音ですからね。私は未聴ですが、案外いいかもです。
私の隠れたお薦め盤はキース・ジャレット(P)他による 盤です。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88-%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%8E%E5%8D%94%E5%A5%8F%E6%9B%B2%E7%AC%AC23-27-21%E7%95%AA/dp/B00005FHPG/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=music&qid=1256987407&sr=1-1
ジャズ・ピアニストによる余技と思いきや、これが驚くほど正統的名演で、美しいです。彼のモーツァルトは実演も聴きましたが、真に素晴らしいです。
ただし、チック・コリアのモーツァルトのようにジャズ・ピアニストとしての即興の遊びは比較的少ないほうです(だから踏み外しも少ない)。クラシック演奏の王道を行くアシュケナージは多分もっとそうなのでしょうが、問題は、それが本当にモーツァルトの本質なのかどうかです。
ここで、問題提起です。モーツァルトのピアノ協奏曲演奏の即興や楽譜にない装飾音は、モーツァルトの時代の演奏スタイルを想像すると、今普通のクラシック演奏家の演奏スタイルよりも、バロック音楽やジャズのように、当然もっと大いにあっていいですよね。ここまでは常識です。じゃあ、どこまで?
モーツァルトのピアノ協奏曲の即興や楽譜にない装飾音は良くて、弦楽四重奏曲で行っては駄目なのでしょうか?交響曲は? もし駄目なら、その根拠は?
少なくとも、彼のピアノ・ソナタの即興や装飾はOKですよね。ではベートーヴェンのピアノ・ソナタは? 弦楽四重奏曲や交響曲は? 段々自分でも分からなくなってきます。
>モーツァルトは非常に刹那的に生きていたように思える節がある。確かに悪く言えば「刹那的」だろう。ただし、見方を変えれば、それは「今をとにかく謳歌した」ということだ。その上、常にチャレンジングで、新しいものを生み出そうとした。幸か不幸かそのお蔭で余りに作風が時代の先を行き過ぎ、人気が低迷し、挙句食べるのにも困るほどの困窮生活を強いられることになるのだが。
私自身は、弦楽四重奏曲のような室内楽でも、即興や装飾などの遊びを試みた演奏が一方でもっと数多くあっていいと思っています。それが、おっしゃるような、大作曲家兼、名ピアニスト兼、名弦楽器奏者でもあったモーツァルトの、チャレンジ精神や、芸人魂・心意気、聴衆へのサービス精神の本質に通ずると考えるからです。

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雅之

また訂正です。
×チック・コリアのモーツァルトのようにジャズ・ピアニストとしての即興の遊びは比較的少ないほう
○チック・コリアのモーツァルトのような、ジャズ・ピアニストとしての即興の遊びは比較的少ないほう
日本語は難しいです(笑)。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
キース・ジャレットのクラシック演奏は一時期流行ましたよね。
残念ながら僕はバッハしか聴いておりません。最近はキースのクラシック、音沙汰ないようですがどうなんでしょうかね?
>ジャズ・ピアニストによる余技と思いきや、これが驚くほど正統的名演で、美しいです。彼のモーツァルトは実演も聴きましたが、真に素晴らしいです。
実演も聴かれたんですね!それは間違いないですね。
>モーツァルトのピアノ協奏曲の即興や楽譜にない装飾音は良くて、弦楽四重奏曲で行っては駄目なのでしょうか?交響曲は? もし駄目なら、その根拠は?
>ではベートーヴェンのピアノ・ソナタは? 弦楽四重奏曲や交響曲は?
確かに!!これは難しい問題ですね・・・。
>私自身は、弦楽四重奏曲のような室内楽でも、即興や装飾などの遊びを試みた演奏が一方でもっと数多くあっていいと思っています。
同感です。

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