蔵島由貴ピアノリサイタル

上野にある旧東京音楽学校奏楽堂で開かれた「蔵島由貴ピアノリサイタル」を聴いた。
上野駅の公演口を出て、文化会館を横目に公園の中を足早に歩く。既に日は暮れており、この辺りは人影もまばらで、何ともいえないノスタルジックな雰囲気を醸し出している。10分ほど歩くと、(僕は初めて訪れたのだが)かの奏楽堂が目の前に現れ、さすがに国の重要文化財というだけあり、いかにも古き良き明治の時代の面影をところどころに残している様が妙に知的好奇心をくすぐる。あとで調べてわかったことだが、このホールでは滝廉太郎がピアノを弾き、山田耕作が歌曲を歌ったという。

ところで、肝心のリサイタルについて。
前半はショパンのノクターン作品9-1&2とエチュード作品10全曲。蔵島の演奏は概してピアノと格闘するかの如く激しい。2年前の目黒での初リサイタルも聴いているが、その時の男性顔負けの厳しい演奏を髣髴とさせる。特に、細い身体からは想像もつかない激しい打鍵による割れんばかりのフォルテは、大袈裟だが重要文化財となっているこの古いホールの総てを揺るがすよう。とにかく、良し悪しは別問題としてコンサートに懸ける彼女の意気込みは十分過ぎるほど伝わってくる。
しかし、敢えて言うなら、いわゆる「愛」が不足しているように僕には感じられる。
ショパンの創作する楽曲のほとんどは様々な愛の女性遍歴から生まれ出たものである。それもどちらかというと「母性」を求めるいわゆる普遍的な「愛」が根底に流れているように思うのだ。それゆえ、彼の作品を演奏するとき、奏者にはどうしても総てを受容し、抱擁できるだけの「愛」が不可欠だと僕は考えるのである。人間は誰でも「愛」を内に備え持っているものである。しかしながら、例えば日常の中に何か不安や悩みがあるとその「愛」は意識のできない手の届かない奥底に追いやられてしまう。人間は長所・短所、明るいところ暗いところ含めて全てその人でオンリーワンなのだから、腹をくくってすべてをオープンにしたほうがいい。とにかく吹っ切ることである。そうすればもっと人間らしい温もりのこもったピアノが弾けるんじゃないだろうか。ピアノの技術と同時に人間的な幅を広げるような経験を積むとより一層いいと思うのである。

後半はラフマニノフのヴォカリーズ、第2協奏曲第3楽章、第2ソナタという超弩級の楽曲を一気呵成に弾く。昨年の4月に葛飾で聴いた第2協奏曲も意外な名演だったし、今回の第2ソナタを聴いても、ラフマニノフは彼女のスタイルにぴったりで、僕はとても好感が持てた。というより、楽しかったし、聴き応え充分であった。どうやら蔵島は19世紀後半から20世紀にかけてピアノが現代ピアノとしての機能を充分に発揮できるようになってから作られた楽曲、例えばピアノを打楽器として捉えて曲作りをしている作曲家やヴィルトゥオーゾといわれる音楽家の作品を得意とするようだ。アンコールで弾かれたエルガーの「威風堂々」などは聴いていて興奮したし、とても良かった。

ショパン:12のエチュード作品10
マウリツィオ・ポリーニ(ピアノ)

20年以上前、最初期の頃に購入した懐かしいCD。ポリーニの完璧なテクニックに舌を巻き、何度も聴いた音盤である。しかし、今聴いてみるとこのポリーニの演奏の根底に「愛」は感じられない。機械仕掛けのような正確なピアノで、楽曲を「知る」には好都合のCDだろうが、ショパンの心を感じたいのなら別の演奏を薦める。ポリーニの「テクニック」に関しては見習って良し。一方、「心」は反面教師にすべし。

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