Blu-rayの鮮明な画像と音声に慣れるとこのメディアでいろいろな音楽を堪能してみたくなるものだが、一方、十数年もの間ほぼ手つかずで放置しておいたアナログ・レコードの―多少の針音や内周部での音の歪があるものの―温かみのある円やかな音楽に浸るとまた別の「恍惚感」が味わえる。
本棚を整理していて、随分昔に購入してよく読んでいた五味康祐著「ベートーヴェンと蓄音機」というエッセイ集を発見した。ぱらっとページを開くと、
「モーツァルト(1756-1791)ではオペラである。『魔笛』と『フィガロの結婚』である。大胆な言い方をゆるされるなら、この二曲と、死の直前に書かれた『レクイエム』(モーツァルトの自筆としては未完だが)それに『交響曲第40番』(ト短調)を聴けば、モーツァルトの天才のすべてがわかる。35で死ぬまで神童だったモーツァルト、涙の追いつかぬ悲しみを生きていたモーツァルト、天馬空を征く早さでつぎつぎと傑作を(こともなげに)書いたモーツァルトのその天才と、かなしみが、言いつくせぬ美しさでこれらの歌劇や、鎮魂曲、交響曲には出ている。」
と。真に五味先生らしい確信に満ちた言葉。なるほどこの4曲でモーツァルトの「すべて」がわかるのか・・・!!音響好きの文豪で有名だった五味康祐先生がもし今の時代に生きておられたらオーディオ・メディアの発達、発展にどのような感想をもたれたろう。想像するだけで何だか面白い。
モーツァルト:
・交響曲第40番ト短調K.550
・アイネ・クライネ・ナハトムジークK.525
ズービン・メータ指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団(1977.2録音)
音楽遍歴の最初期に購入したアナログ盤。若きメータの精悍な表情が印象的なジャケット。肝腎の演奏も、今聴いてもとても良い、というか僕好み。テンポといいバランスといい・・・。特に第40番シンフォニーなど、無駄のない自然体の「脱力」演奏で、聴き終わるとまた最初から聴きたくなる代物。CD化されたものは聴いたことがないので比較はできないが、イスラエル・フィルの音が時にウィーン・フィルのそれのように聴こえる瞬間があるのだから堪らない。
ところで、今朝「中心線に身体を整え、手の先からは気を出すように、そして後ろの足の親指ではなくて小指で全体を支えるんです」と教えていただいた。合気道の基本動作のこと。確かに教わったようにするととても安定する。地に足を着け、軸を定め、先端からエネルギーを出すようにすると、余計な力を入れなくてもビクともしないんだということが身をもってわかった。とはいえ、「わかること」と「できること」の間には相当のギャップがあるもの。あとはもうひたすら稽古によって埋め合わせてゆくこと。
どんなものでも、人の成長を促すコツは長年の経験から生み出されるものだと思うが、明文化するとなるとなかなか手強い。それを普遍化、スタンダード化するにはわかりやすい言葉にすることが肝要だと別件お打ち合わせ中にもまた思った。宿題がたくさんある。ひとつひとつ手堅く片づけていかねば・・・。
こんばんは。
最近友人の家で下の真空管アンプ(RA-VT11 RA-VT11 )
http://www.amazon.co.jp/RADIUS-RA-VT11-radius-%E7%9C%9F%E7%A9%BA%E7%AE%A1%E5%BC%8F%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%97/dp/B000PSJ7H4/ref=sr_1_16?ie=UTF8&qid=1326199712&sr=8-16
で聴いたLPの音は、もう何十年も忘れかけていた、涙が出そうになるくらい懐かしく温かい音でした。音の魅力だけを追い求めるなら、LP+管球アンプの路線に尽きると思い知らされました。
少し照明を落とすと、真空管の光の醸し出すムードが、また最高なんですよ!!
この機種は管球アンプとしては値段も手頃だし、思わず欲しくなりました。
五味さんの時代は趣味のオーディオに、今よりずっと各々個性的で、かつ老いも若きも皆幸せな夢や憧れを持てたんでしょうね。
>雅之様
おはようございます。
真空管アンプについては、同意見です。
友人が小松音響研究所というところの真空管をべた褒めしておりました。
http://blog.komatsuonkyo.com/
実際に聴かせてもらいましたが、いいですねぇ。温かいです。それにおっしゃるとおり、光の醸し出すムードがたまりません。
>五味さんの時代は趣味のオーディオに、今よりずっと各々個性的で、かつ老いも若きも皆幸せな夢や憧れを持てたんでしょうね。
本当ですね、古き良き「人間味」のより一層あった時代だと僕も思います。
よく感じることですが、LPの頃って、各レーベル独自の音色、味わいを、今よりはっきり聴き分けられたじゃないですか。ドイツ・グラモフォンはドイツ・グラモフォンの、英デッカは英デッカの、EMIはEMIの、フィリップスはフィリップスの、CBSソニーはCBSソニーの・・・、
CD(SACDも)になると、過去のアナログ音源でも、そのレーベル独特の音色を感じ取りにくくなってませんか? マスターテープの全情報量から、レーベル秘蔵の隠し味をすっきりと洗い流した感があります。
それは、オーディオにとって果たして進化なのか退化なのか、難しいところですね。
演奏家も、音楽マニアも、オーディオも、オーディオマニアも、レコード会社も、スマートに角やアクが取れ、没個性になったってことですか。今の私は、それが悪いことだとはちっとも考えていませんが、客観的に見て面白く無くなったのは事実でしょう。
50年代や60年代のジャズやクラシックの名盤は、まだ真空管を使ったテープレコーダーでの録音も多かったのでしょうが、ICやLSIが作る物理的に優れた音とは、決して相性良くはないようですね。リマスターだけで、信じられないくらい豊穣なマスターテープの情報量に近付くのも、限界がありそうです。
>雅之様
おはようございます。
>CD(SACDも)になると、過去のアナログ音源でも、そのレーベル独特の音色を感じ取りにくくなってませんか?
確かにその通りですね。デジタルというのはクリアになる分、人間的な、というより自然、宇宙の道理である「曖昧な」部分を根こそぎ削ぎ落としてしまうんでしょうね。
>客観的に見て面白く無くなったのは事実でしょう。
>リマスターだけで、信じられないくらい豊穣なマスターテープの情報量に近付くのも、限界がありそうです。
同感です。
ですから、聴く側が「聴き方」を選んで対処するのが一番正しいのかもしれません。実際問題難しいでしょうが、SP録音は蓄音機で、LPはアナログ・プレーヤーで・・・。