男子厨房に入らず

tchaikovsky_pathetique_celibidache.jpg男と女は別の生物だというが、男と女に限らず十人十色、ペースもやり方も、もちろん感じ方も千差万別。ひとつのものさしでは決して測れない奥深さを持つ。それがまた人間なのだから面白い。各々は不完全な存在だが、協力して調和することで完全になる。まさにひとつになることだ。山川紘矢氏の講演を聴きながら、そんなことを考えさせられた。

「男子厨房に入らず」という言葉がある。昔、竈には竈の神様がいて、それを祭るのは女性の仕事だとされており、むやみに男性が入ると神様の機嫌を損ねて、とんでもない災いを引き起こすと怖れられていたことがその言葉の意味らしい。
現代の人間関係を軸に考えてみた。冒頭に書いたように、男と女の感覚の違いを暗にほのめかしているようにもとれる。彼女が思ったような手順で料理を手際よく作らないと妻はいらいらするらしい。でも、ペースもやり方も違うし、そんなものに正解など存在しないと夫は言い張る。どんなことでも責任の所在をはっきりし、何が起こってもその責任者が責任をとることが大事ということか。大袈裟にいえばそんなようなことを伝えている言葉のようにも聞こえる。いかに人間関係をスムーズにするか、それは誰にとっても大切な要件なのである。

特に夫婦の関係などは、何かを学ぶための修行、あるいは自身の成長のための鍛錬なんじゃないかと思うことが時々ある。得てして全く違うタイプの男女が惹かれあう。仲良いときもあれば喧嘩もある。でも、そういうことがあるからこそある意味「健全」なんだとも思うのだ。

世の中には善人も悪人もいない。周りに影響を受けて人は善にも傾くし、悪にも傾く。すべて「鏡」であり、周りが作り出した「状態」なのだと考えてしまってもいいのではないのか(人間の根本は「性善説」であるという考えは変わらないが)。横綱朝青龍の事件や小沢一郎氏の問題などがここのところ世間を騒がせているが、本当にマスコミの報道だけを鵜呑みにして良いのだろうか?真実はどこにあるのか?実際にはあらゆる角度から検証して真実を見つけない限り正しい判断は決してできない。

後天的に身に付いた「感情」に身を置いてしまうと、真実を見失ってしまう。冷静になろう。

ところで、ポピュラー・ミュージックにはオリジナル演奏というものが存在する。しかし、クラシック音楽には残念ながらオリジナル演奏はない。もちろん録音技術が発達していない頃の記録は残されているはずがないし、近現代の音楽の場合も、クラシック音楽に限って言えば、それが「ものさし」になることはあっても「決定的解釈」になることはまずない。そこがクラシック音楽のまた面白いところ。懐が深いのである。どんな解釈でも受け入れてしまうのだ。ゆえに晩年のチェリビダッケのような超鈍足のブルックナーが存在するかと思えば、カルロス・クライバーの快速のスポーツカーのようでありながら、人の心を捉えて離さない芸術(ベートーヴェン!ブラームス!)も存在する。どちらが正しいのかという問題ではない。どちらも「そこに在る」のである。

チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(1992.11Live)

終楽章アダージョ・ラメントーソだけでも真剣に聴いてみると良い。なんと精密で緻密で、しかも心の奥底に響くほどの「想い」がこもっていることか!


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。
>人間の根本は「性善説」である
について拘らせてください。
私は、「性善説」の弱点は、自分に対して甘くなることだと思っています。他人が「善」なら、自分も当然「善」のはずです。しかし、私は岡本さんとは違い、自分を「善」だけの存在とは全く考えておりません。
人が、知らず知らずのうち犯している罪ってあるじゃないですか、個人レベルでも国家レベルでも・・・、それに気付くことこそが大切で、「そんなこと知らないもんね」は最も大罪なのではないでしょうか? もし人が「善」だけで成り立っているのなら、キリストが人類の原罪を一身に背負うことも、親鸞が「悪人正機説」を唱える必要もなかったことでしょう。
男女の愛も、人類への愛も、性差や文化の違いを認め合い、お互い無意識の内に犯している罪を許し合い、それを超越したところから生まれるものだと思います。だから尊いのでしょう。
>横綱朝青龍の事件や小沢一郎氏の問題
人も組織も国家も(営業マンも)、本当に真価が問われるのは順風時ではなく逆風の時です。その意味で、今私が最も注目しているのは、日本を代表する企業T社の今回のクレーム問題に対する一挙手一投足です。世界から「さすがは世界のT社」と尊敬されるか、「やっぱり日本の企業は最低だ、T社はその象徴だ」と揶揄され「悪」の烙印を押されてしまうのか、まさに正念場です。私もそれによっては心待ちにしていた5月納車をキャンセルするかもしれません。
人間は、個人レベルでも、家族レベルでも、企業レベルでも、国家レベルでも、「徳」が大切です。「徳」を得るためには、自己の無意識の「罪」や「悪」も、謙虚に見つめなければなりません。辛いことですが、それが人間関係の深化の第一歩だと、私は考えます。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
ありがとうございます。こういう拘りのご意見大歓迎です。
おっしゃることは全く正論で一部の隙もございません。
>もし人が「善」だけで成り立っているのなら、キリストが人類の原罪を一身に背負うことも、親鸞が「悪人正機説」を唱える必要もなかったことでしょう。
「2001年」でヒトザルがモノリスに触れることで得た知恵が「殺戮」だったということは以前にも話題にしました。まさにそれがキリスト教で言う「原罪」だと思うのですが、「ヒトザル」が人類の起源だとするなら、「それ以前」、つまり「知恵」を授からなかった時点ではその「罪」をかぶっていなかったとも解釈できるのではないでしょうか?(飛躍しすぎですかね?)
表裏、陰陽、善悪、などなど、人間は2つの目で外を見て、好きか嫌いか、良いか悪いかで判断する生き物です。あのシーンは、人類が二元論に陥った決定的なシーンなんじゃないかと思うんですね。それが人間というものだと想定するなら、雅之さんがおっしゃるように親鸞の「悪人正機説」は間違いなく「正しい」と思います。しかし、本当は、または本来はやっぱり「ひとつ」なんだろうなとつくづく思うのです。
傲慢な言い方になりますが、親鸞すらも上回った見方をすればそんな風に考えられるんじゃないかと・・・。
>お互い無意識の内に犯している罪を許し合い、それを超越したところから生まれるものだと思います。だから尊いのでしょう。
同感です。ただ、無意識の「罪」を意識することも重要で、ひょっとすると今の時期そういうことに目覚めなければならない時代に差し掛かっているのではないかとも思います。
>人も組織も国家も(営業マンも)、本当に真価が問われるのは順風時ではなく逆風の時です。
おっしゃるとおりですね。今は政治も経済も膿が出て、これからは「本物」だけが残ってゆく時代だと思います(船井さんじゃないですが)。
>自己の無意識の「罪」や「悪」も、謙虚に見つめなければなりません。辛いことですが、それが人間関係の深化の第一歩だと、私は考えます。
同感です。すべてをひとつに包み込んで受け入れるという姿勢ですね。

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