明日開催予定だった第35回「早わかりクラシック音楽講座」を諸般の事情で中止することにした。いつも楽しみにしていただいている参加予定だった皆さまには大変申し訳なく思います。
今回はイギリスの生んだ大作曲家グスターヴ・ホルストの名作、組曲「惑星」を中心に採り上げる予定だった。ところが、このホルストという作曲家に関しては僕自身勉強不足で、これまで多くの作品を享受してこなかったどころか、その生い立ちや人間性についてもほとんど無知だったゆえ、ひょっとすると神様がもう少し勉強してから皆さまに講義すべきだろうと、採り上げるのを延期するよう計らってくれたのかもしれないと思い、ホッとしているところだ。
とはいえ、少しずつホルストについて調べ上げているうちに、例えば彼が熱烈なワグネリアンだったこと、若い頃聴いた「神々の黄昏」やバッハのロ短調ミサ曲に衝撃を受けたこと、あるいはインド哲学やサンスクリット文学に興味を持ち、厳格な菜食主義者であったこと、そして音楽的にはテューダー朝のトマス・ウィールクスやウィリアム・バード、ヘンリー・パーセルといった作曲家にぞっこんだったことなどが判明し、ともかく興味が尽きない。そういう彼が占星術に興味を抱き、その結果「惑星」が生まれたことなどを合わせて考えると、この作曲家の人となりやその音楽の「底」は極めて深く、決して安易に採り上げられるような芸術家ではないこともよくわかり、一旦中止にしてちょうどよかったかもしれないと考えている。この際、もう少しホルストについて掘り下げて研究、熟聴した上で近いうちに採り上げることにしようと思う。
昼間、帰宅してすぐテレビをつけたら偶然フィギュア・スケートの生中継をやっていて、ちょうど安藤美姫の出番だった。手に汗握る演技についつい集中して観てしまったが、それにしてもキム・ヨナは完璧だった。彼女がBGMに選んだ楽曲はガーシュウィンのピアノ協奏曲へ調。
1925年の初演当時は批評家の中でもクラシックに分類するかジャズに分類するか評価が二部されたそうだが、この際ジャンルなどどうでもよい。どこのジャンルに属そうと音楽として素晴らしければそれで良いのである。今回のキム・ヨナの演技ではこのガーシュウィンの音楽が花を添えた。一昨日のショート・プログラムでは「007メドレー」だったが、選曲センスもフィギュアにおいては大事だということなのだろう。それにしてもリヒテルのガーシュウィンというのは想像外だ。どんな解釈になるのか聴くまでまったくイメージできない。
しかしながら、軽妙洒脱なガーシュウィンの音楽を、リヒテルらしい雄渾で重厚な音楽に仕立て上げているところが好ましい。これはもはやジャズというより立派な「20世紀音楽」だ。自身の「ラプソディ・イン・ブルー」の匂い、そしてラフマニノフからの、あるいはラヴェルからの影響が垣間見える。
おはようございます。
>この際ジャンルなどどうでもよい。どこのジャンルに属そうと音楽として素晴らしければそれで良いのである。
また、今朝もブログ本文の話題から脱線し、恐縮です。
大瀧詠一渾身の傑作集について書かれた2月17日付ブログ本文
http://classic.opus-3.net/blog/j/post-354/
にコメントを書いた直後発売になった「CDジャーナル」(㈱音楽出版社)3月号の中で、鈴木祥子さんの連載エッセイ「33 1/3の永遠」(99ページ)は、最近私が漠然と思っていたこととを上手い言葉で言い当てていて、とても共感しました。ちょっと長めに引用しますが、機会があれば、ぜひエッセイ全文をお読みください。
・・・・・・『カレンダー』と双璧をなす作品は、自分の中では誰が何と云おうと『レッツ・オンド・アゲイン』
http://www.hmv.co.jp/product/detail/793207
である。
ピーター・バラカンさんも解説に書かれている通り、このアルバムが内包しているテーマは実に鋭く深いと思う。日本の文化とは、リズムとは何か?
西洋から輸入された文化やリズムに否応無く慣らされ、憧れる自分とは何か。西洋と日本、を引きくらべて劣等感を感じるのはなぜか。その恥ずかしい、という感覚はどこから来るのか。
すべての問いに〝答える〟のではなく、〝パロディ〟というカタチでさらに切っ先鋭く問い直したのが『レッツ・オンド・アゲイン』だ。
音頭のリズムに頭打ちの手拍子、お囃子の声。それに乗って踊り出したくなる自分に戸惑い、取り乱しつつも理屈抜きにカラダが動く、この浮き立つような楽しさはどこから来るのか(タイトル曲を歌う布谷文夫の、民謡とファンクが結婚したような土着的な歌声が大層格好良く、大ファンになってしまった。)
盆踊りの夜、輪になって踊った炭坑節や東京音頭。太鼓の響きに下駄の音。それが〝格好悪い〟ものならば、欧米から来たものはすべて〝格好良い〟のか。戦後の日本とはいったい何であるのか。いったい誰の視線に合わせて、我々は生きているのか。
須くリズム、というものの奥には生命感への根源的な称揚と肯定がある。それはエロスやセクシャリティーにつながり、祭りや踊り、歌、という文化、人間の営みとまっすぐつながってゆくものでもある。
アメリカだろうが日本だろうがロックンロールだろうが音頭だろうが同じなんだよ、ということを、重々しいマジメな顔じゃなく、一度ぶっ壊して笑いのめすディセンシーをもって伝える、これが大滝詠一=ナイアガラの真骨頂であると言ったら、高校時代の自分はひっくり返って驚くであろう。
(中略)
まったく異世界のように語られることの多い『ロング・バケイション』と『レッツ・オンド・アゲイン』をつなぐもの、そのギャップゆえにミステリアスであり、謎でもある(と信じられている)ナイアガラの作品群に通底する、非常にプリミティブで代替不可能なもの。
不思議な世界に迷い込んだら最後、抜け出すことを拒む永久のラビリンスのような〝怖さ〟もそこには在る。
〝――時間の流れでその場所がどんなに変わろうと、緯度と経度は同じなんだよ。〟
――大滝さんのその言葉にハッとした。雑誌『東京人』で特集された、映画のロケ地を巡ったフィールドワークのお話をしていた時だったと思う。
自分は感動する、ということを忘れてしまったのかな、とある時期思っていた。
どう仕様もない加齢なのか、と半ばあきらめていた。客観的である、ことをどこか冷笑的である、こととごっちゃにしていた。
自分の緯度と経度を知りたい。音楽の緯度と経度、世界のなかの自分、自分のなかの音楽。
そんなことは与り知らず流れてゆく大きなものが在り、その流れのなかに音楽があり、自分、が居る。大きなものと小さなもの。それがどんな関係にあり、どんなふうに変化してゆくのか。それを考えてゆきたい。生まれてはじめてそう思った。
そうだ、感動するってこういうことだった。私はずいぶんと永いこと、それを忘れていたような気がした。・・・・・・
一読した時、素晴らしい! と、瑞々しい気持ちになれました。
こういう文章に真の意味で共感できるようになったのは、岡本さんのブログ・コメント欄でやり取りをするようになったおかげです。改めて感謝です。
大滝さんの言葉、
〝――時間の流れでその場所がどんなに変わろうと、緯度と経度は同じなんだよ。〟
それこそ岡本さんがいつもおっしゃる、「自分軸」という言葉とイコールなのだとも思いました。
「惑星」の講座、後日ぜひ! 私にも新たな視点での御教示を!!
>雅之様
おはようございます。
ご紹介のCDジャーナル誌の記事、見事ですね。
>自分の緯度と経度を知りたい。音楽の緯度と経度、世界のなかの自分、自分のなかの音楽。
そんなことは与り知らず流れてゆく大きなものが在り、その流れのなかに音楽があり、自分、が居る。大きなものと小さなもの。それがどんな関係にあり、どんなふうに変化してゆくのか。
音楽を聴くことに限らず、こんな風に自身を見つめることができたら素晴らしいですね。一見関連性の見えない作品群を同一人物が成し遂げている点が大瀧さんの偉業だと思います。おそらくこれ以上やることがないので新作を作らないのかもしれません(笑)。
自分に固執した「自分軸」ではなく、「大いなるもの」を明確に意識した「自分軸」を創造したいものですね。
>岡本さんのブログ・コメント欄でやり取りをするようになったおかげです。改めて感謝です。
いえいえ、僕の方こそ毎々感謝いたしております。
本当に思考が深まります。ありがとうございます。