ひとつの歴史的ドキュメントとしてただ冷静に聴くのがベストだと思う。
アルトゥーロ・トスカニーニが指揮の完全引退を決意するきっかけになったといわれる、カーネギーホールでのオール・ワーグナー・プログラム・コンサートの実況録音盤。
たぶん指揮者本人は不本意な記録として世には問いたくなかっただろう代物。
タンホイザーの長い序曲とバッカナーレが消えていった後、トスカニーニは夢から醒めた人のように身を起こした。元来彼は“トリスタン”の序曲を演奏するはずだったが、木曜日自分の指揮で吹き込んだレコードをきいた後、もうこれを指揮するだけの記憶力に対する自信がなくなっているのに気がついた。土曜の練習の時。彼は手荒くドアーをしめきって楽屋の中に閉じこもってしまった。翌日曜は非常に不機嫌で、楽員たちにも果たして彼が指揮をするかどうか分からなかった。しかし彼は定刻にはきっちり指揮台に上がり、“名歌手”の最後の和音まで平常通り棒をふった。振り終わると、彼はバトンをぱったりとり落とし、それを拾ったヴァイオリニストから手渡されるのを放心したようにうけとった。平常の通り万雷の拍手が会場一杯なり渡ったが、トスカニーニはそれをきき流し、立ち去ってしまい、それきり戻って来なかった。
~吉田秀和著「音楽紀行」(中公文庫)P116-117
これはマンチェスター・ガーディアン紙のコンサート評の一部だが、実にリアルな状況報告であるにもかかわらず、有名な「一時的記憶喪失による演奏不能」については書かれていない。伝言ゲームのように、彼の引退にまつわる情報がいかにも誇張して都市伝説の如く流布している結果なのだと思うが、実際音を聴いてみる限りにおいて、(たとえ編集されているのだとしても)危うさはまったく感じられない。むしろ、トスカニーニらしい生気溢れる見事なワーグナーが奏でられているのである。
強烈な音圧と、轟く音の内側に秘める火を噴くような熱情が感じられるのは確かだ。それでも、やっぱりトスカニーニは実演に触れない限り、その真意は絶対に見えない指揮者なのだとあらためて痛感する。リヒャルト・ワーグナーの信仰を見事に音化した作品たちの内側に宿る崇高なるエネルギーを取り出して見せる老トスカニーニの棒(オーケストラの乱れ云々などというのはこの際微細な問題)。
「神とは何か。神は存在するか。答えはこうだ。〈堅き砦〉、それが神である。そして不死とは〈イゾルデの昇天〉である。信仰とは何か。《タンホイザー》の〈巡礼の合唱〉である」。彼は仕事に向かうものの、体調がすぐれない。暖炉の火をいやがる。石炭の煙が体に障るのだ。
(1872年2月11日日曜日)
~三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P118
少なくとも録音だけで聴く限りにおいて、トスカニーニのワーグナーには健全な、不死や信仰などという精神的側面でない、もっと物質的な、人間的な何かを僕は感じる。それは、僕だけだろうか。
トスカニーニ・ラストコンサート1954
ワーグナー:
・歌劇「ローエングリン」~第1幕への前奏曲
・楽劇「ジークフリート」~森のささやき
・楽劇「神々の黄昏」~ジークフリートのラインへの旅
・歌劇「タンホイザー」~序曲とバッカナール
・楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」~第1幕への前奏曲
・リハーサル~楽劇「神々の黄昏」~ジークフリートのラインへの旅より
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団(1954.4.4Live)
猛烈な拍手喝采が、何だかとても悲しい。
興味深いのは、部分的に収録されたゲネプロでの「ジークフリートのラインへの旅」。オーケストラを随所で止め、怒鳴り散らすトスカニーニの荒ぶる声に恐怖を覚えるほど(ライナーノーツによるとここでは種々トラブルがあり、もはやトスカニーニの記憶は曖昧で、間違った指示が飛び交っていたという)。生々しい貴重な記録だ。
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