私をして言わしむるならば、歴史の継続性とはまさに、このような過度の緊張が突然に失墜し、それがまたゼロから再出発してまたもや過重を負わされ、ついで新たな失墜を見るという、この現象によって成り立っているものなのです。すなわちそれは、肯定的な諸点を通って上昇し、ついでゼロの点へと下降し、つぎには否定的な諸点を通ってからまた上昇する、というぐあいです。
~ピエール・ブーレーズ/店村新次訳「意志と偶然―ドリエージュとの対話」(法政大学出版局)P23
世界は膨張と収縮、爆発と消沈を繰り返し成長する。
魂も抑圧と解放を繰り返し成長する。
ピエール・ブーレーズのマーラーを聴いた。
かつて(1974年)この人は次のようにも語っていた。
私は、われわれが歴史の重荷がもはや問題とならぬような時代に入ってゆくのだと思います―私は自分がそこにすでに入っているのを、はっきりと感じます。私も時には博物館を訪れることがありましょう。しかし、私は断然未来にのみ向けられているのです。それもますますそうなってゆくのです。私にとって、遺産相続という点はもはや重要性を持ちません。新しい思索のカテゴリーこそが重要です。
~同上書P189-190
もちろんこの言は、作曲家としての自分への言葉だ。しかし、この後の指揮者としてのブーレーズの活躍を見ると、他人の作品を解釈するという意味においても、博物館を訪ねつつ彼独自の方法で新しい表現を生み出そうとしていることがわかる。
これこそ「温故知新」。
冒頭の彼の言葉を掲げるまでもなく、彼の音楽は、そして精神は今日まで螺旋状に昇りつめて来たのだろう。
一切の感情的なものが排除された、何と知的で冷静な「9番」であることか。
・マーラー:交響曲第9番ニ長調
ピエール・ブーレーズ指揮シカゴ交響楽団(1995.12録音)
熱の放射の少ない、極めて冷たいマーラー。
しかしながら、ここには実に見通しの良い明晰な歌があり、完全な音楽がある。
例えば、(多くの第9信奉者が)天にも昇る思いで聴くであろう、あの終楽章・・・。
解放と昇華の物語の前の激闘のない安寧に心動き、クライマックスの後のあまりの静謐さに背筋が凍るほど。
作曲家の人格が投影されないこの表現について根っからのマーラー好きは果たしてどう思うのだろう?
僕は思う。
ここにはただ音楽があるのみ。
ただ、真実がある。
対話から20余年後、ブーレーズ70歳時の演奏。
それから早20年が経過する。
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「面白くない演奏」こそが面白いじゃないですか!!(笑)
>熱の放射の少ない、極めて冷たいマーラー。
「マーラーの課題」と「自分の課題」を明確に分離して客観的に聴くことができるこの解釈、好きです。
私には、家で本を読みつつの「ながら聴き」するには、思考を邪魔されないこの演奏くらいがちょうど良いです。
>雅之様
>「マーラーの課題」と「自分の課題」を明確に分離して客観的に聴くことができるこの解釈
嗚呼、アドラー!!(笑)
思考を邪魔されないというのがミソですね。