マリア・カラスのケルビーニ歌劇「メデア」(1957.9録音)を聴いて思ふ

マリア・カラスが亡くなって40年になる。
ここのところしばらく彼女の残した数多の録音を順番に聴いているが、一聴カラスとわかる低く伸びのある独特の歌声にあらためて感銘を受ける。
作品によって差があり、当然得手不得手はあるのだろうが、作品に意志があるなら、その作品はカラスの色に染まるという意味で本望なのではあるまいか。文字通り不世出の歌手である。
中でも、世界にマリア・カラスの天才を知らしめたルイジ・ケルビーニの「メデア」。

こうして数々の成功をおさめたとはいえ、当時のカラスの最大の功績は、ケルビーニの「メデア」(1797年)のタイトルロールを独自の解釈で演じたことだった。主旋律の純粋さに加えて、このオペラは、歌の旋律やオーケストレーションの点でも、古典的悲劇の壮大さの点でもきわめて独創的である。また、特にその完璧な演奏速度と巧みな構成によって、学術的な研究対象から昇格して芸術作品に分類されている。ベートーヴェンとプッチーニは、「メデア」は傑作であると明言した。
ステリオス・ガラトプーロス著/高橋早苗訳「マリア・カラス―聖なる怪物」(白水社)P153

グルックの歌劇と同じく、18世紀末でありながら悲劇的な物語に相応しい、時代を超えた革新的な音楽に僕は惹かれる。

19世紀のイギリスの音楽評論家チョーリーは、メデアという役についてこう書いている。この役に必要なのは、「(アンジェリカ・)カタラーニのように、いわゆるクラリオンのような声をもつ歌手であり、無尽蔵の感情を延々と表現することによる緊張と疲労に耐えられる、丈夫な体を持つ歌手である。そして、カタラーニの音域と声をもつ歌手が見つかったら、今度は(ジュディッタ・)パスタの威厳ある表情、優雅な物腰、人をひるませる嘲笑、恐ろしい復讐の念、母としての良心の呵責を再現してもらわなければならない。こうして、作曲者のつくりあげた役はようやく完成するのである。」
~同上書P153

これは、それほどに四重人格的、様々な感情が表現できる歌手が果たしているのだろうか、もはや絶対に現れまいという意味を込めて書かれた論であろうが、それから1世紀を待たずして確かに現われたのである。

カラスは、非常に困難なこの役を8日でおぼえてしまったらしい。彼女はやがて独自の解釈を完成させることになるのだが、このときもメデアの役は最初から大成功だった。・・・(中略)・・・「昨夜のマリア・カラスのメデアはみごとだった。彼女は、偉大な歌手であると同時にすぐれた才能をもつ悲劇女優であり、この魔女の邪悪さを声で表現した―低音域は猛々しいほど力強く、高音域は耳をつんざくばかりだ。しかし、恋するメデアの声は切なさにあふれ、母であるメデアの声はこのうえなく感動的だった。要するに、彼女の表現力は楽譜を超えて、重要な登場人物として伝説化したこの女性にまで影響をおよぼしたが、それは敬虔さと謙虚さにもとづくものであり、つねに作曲者の意図に忠実だった。」
~同上書P153-154

1953年の蘇演の舞台を観たテオドーロ・チェッリによる手放しの賞賛が、いかにカラスの舞台が素晴らしかったことを伝えてくれる。嗚呼、やはり実演に触れて見たかった。

・ケルビーニ:歌劇「メデア」
マリア・カラス(ソプラノ、メデア)
レナータ・スコット(ソプラノ、グラウチェ)
ミリアム・ピラッツィーニ(ソプラノ、ネリス)
ミルト・ピッキ(テノール、ジャゾーネ)
ジュゼッペ・モデスティ(バス、クレオンテ)
リディア・マリンピエトリ(ソプラノ、第1の侍女)
エルヴィラ・ガラッシ(ソプラノ、第2の侍女)
アルフレード・ジャコモッティ(バリトン、衛兵隊長)
ミラノ・スカラ座合唱団
トゥリオ・セラフィン指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団(1957.9.12-19録音)

60年前の録音が、生々しく、何と有機的に響くことか。
表裏一体の愛と憎悪こそ人間の性であり、また業。
白眉はやはり第3幕で、メデアが自分の子どもを殺めるかどうか躊躇しながらも手を下す、そのシーンにおけるカラスの葛藤の表現の見事さ。
名匠セラフィン指揮スカラ座管による管弦楽は重みのある音楽を創造し、安定の強さで魅せる。

 

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