フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルのケルビーニ「アナクレオン」序曲ほかを聴いて思ふ

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーの神性。
彼の創造するどの時代の音楽にも潜む赤裸々な人間ドラマには、自身の内なるパッションが見事に刻印され、そして、そのむき出しのオーラからは、強烈なエネルギーが噴き出す。思わず魂が火傷を負いそうになる灼熱。
それゆえに、没後60余年を経過しても、その音楽を追い求めるフリークは後を絶たず。

「すべて偉大なものは単純である」これは芸術家のための箴言である、というのは、何よりまずその「単純」という言葉が、「全体」という概念を前提としているからです。ここで言う「単純」さとは、「すべてを見通して」「突如としてこの一挙に」正しくその「全体」をつかむ、という意味です。
「すべて偉大なものは単純である」
フルトヴェングラー/芳賀檀訳「音と言葉」(新潮文庫)P9

フルトヴェングラーは音と音、フレーズとフレーズの連関を重視した。
伸縮し、揺れるアゴーギクも、また、デュナーミクも、恣意的なようでそうではなく、音楽に沿ってあまりに自然であるゆえ、聴く者を絶対的「魔性」に引きずり込む。
彼の音楽を40年近く聴き続けてきて思うのは、いまだに色褪せない、飽きることのない音宇宙の崇高さ。
小さな作品においてもフルトヴェングラーの棒は雄弁で、麻薬的魅力を醸す。

・グルック:歌劇「アウリスのイフィゲニア」序曲(1954.3.8録音)
・グルック:歌劇「アルチェステ」序曲(1954.3.8録音)
・ケルビーニ:歌劇「アナクレオン」序曲(1951.1.11録音)
・ウェーバー:歌劇「魔弾の射手」序曲(1951.3.5&6録音)
・ウェーバー:歌劇「オベロン」序曲(1950.2.1録音)
・ウェーバー:歌劇「オイリアンテ」序曲(1954.3.6録音)
・ニコライ:歌劇「ウィンザーの陽気な女房たち」序曲(1951.1.18録音)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

盲点はケルビーニの「アナクレオン」序曲。大病に倒れる前のフルトヴェングラーの充実した精神が解釈に刻まれ、実演並みの勢いとエネルギーが発せられる。ウェーバーの「魔弾の射手」序曲も然り。
それには、巨匠と一体となった、当時はある意味欧州ローカルであったウィーン・フィルの、いわゆるウィーン訛りといわれる音が一役買っているだろう。
ウィーン・フィル100年祝典記念講演におけるフルトヴェングラーの、オーケストラへの手放しの賞賛が素晴らしい。

ヴィーン・フィルハーモニーが例外的地位を持っている理由は、私はこの楽団が、―ちょっと聴いた刹那はなはだ矛盾するとお考えになるかもしれませんが―徹頭徹尾ヴィーンのオーケストラであるということだと思います。その個々のメンバーは、ただ今ご覧になっているとおり、実にけし粒ほどの僅かな例外を除いて、みな生粋のヴィーンっ児であります。
「ヴィーン・フィルハーモニーについて」
~同上書P214

現代の普くグローバル化は経済に限らず芸術の世界にまで押し寄せているが、果たしてそのことが芸術の進化、深化につながるのかどうなのか、それは怪しい。

私の経験したところに照らして言わしていただけるならば―先にも言ったかもしれませんが―わがヴィーン・フィルハーモニーの持つあの独特の温かみ、あのふっくらした柔らかみのある豊かな―そしてあの音の同家族性というものは、このような寄せ集めのオーケストラによって到達することはとうてい希むべくもありません。これも決してふしぎなことではありません。ヴィーン・フィルハーモニーの音は、自然のもたらした生産物だからです。こういうものはあとから人工的に音をまねた調節によって、あるいは技術的な訓練というような仕方でつくり出すことのできるものではありません。
「ヴィーン・フィルハーモニーについて」
~同上書P218

フルトヴェングラーの言う「同家族性」という言葉が実に重い。
彼がウィーン・フィルハーモニーと録音した序曲集の、劇的でありながら温かみと柔和さを秘める音楽がいつまでも人々に感動を与えるのは、それゆえだからだろう。音楽も基本は「地産地消」という考え方がベストなのかも。

はじめて聴いたとき、僕はフルトヴェングラーのグルックに痺れた。

 

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