ベルグルンド指揮デンマーク王立管のニールセン交響曲第1番&第2番を聴いて思ふ

nielsen_1_2_berglund253かつてタモリが司会をする「今夜は最高!」という番組で、ゲストで出演された岡本太郎氏がおっしゃった言葉。

名前なんかない方がいいんです、本当はね。例えば人間だけですよ、自分の名前を意識して、そのために碌な行動をしないでしょ?人の目を気にして。・・・人間の虚しさというのは、名前があるから逆に、それにこだわるから虚しくなっているので・・・。

さすがは岡本太郎、見事に真理を言い当てる。確かに名前が自我の発露であり、自我こそがすべての問題の根源ゆえ。

今年6月、生誕150年を迎えたデンマークの作曲家カール・ニールセンは生涯で6つの交響曲を残したが、最初のものを除いて他のすべてには名前、いわゆる「標題」が付いている。作曲家が見ていたものがどういうものなのか、そして見えていたものが何なのか、僕たちは想像するしかないのだけれど、あえて交響曲という「絶対音楽」の名称に彼がこだわったのは、当時大衆から理解されずある意味蔑まれたことに対する一種の反骨心から生まれ出たもので、とにかく一般に聴いていただこうとわかりやすさを求めてのことだったのかもしれない。しかし、この際ニールセンの交響曲に「ニックネーム」は不要だ(と僕は思う)。
何より、最初の交響曲にだけ「名」がつかず、しかもこの音楽が構成や旋律など過去の巨匠たちの影響を如実に受けながらも実にニールセンらしい革新があることがそのことを証明する。
ここでの、楽想が変わるたびにたえず転調を繰り返す妙。そして、時に調性崩壊のギリギリ・ラインまで攻め込みながら決してその一線は超えないという保守性。

カール・ニールセンは「自我」というものをとてもうまく利用したのかも。ほとんど無意識的に。

ニールセン:
・交響曲第1番ト短調作品7(1987.6.3-5録音)
・交響曲第2番ロ短調作品16「4つの気質」(1988.8.15-18録音)
パーヴォ・ベルグルンド指揮デンマーク王立管弦楽団

第1番第2楽章アンダンテのいぶし銀の如くの渋い響きに感銘を受ける。旋律的にはブラームスの衣鉢を継ぐような印象だが、拡がりという意味では同年齢のシベリウスに近い。それゆえか、シベリウスを得意としたベルグルンドの棒も、一切の湿りなくどの瞬間をとらえても有機的で、濃厚な想いが外へ外へと湧き出でる。そして、第3楽章アレグロ・コーモドのベートーヴェンを思わせる楽想に快哉を叫ぶ。なるほど、確かにニールセンの音楽の根底にあるものは楽聖同様「苦悩から解放へ」、「闘争から勝利へ」というものだ。終楽章アレグロ・コン・フオーコの明快さと外向性、そして最終的にハ長調で閉じられる音楽ははまさにそのことの象徴。

「4つの気質」という名称の第2番ロ短調は、何より第3楽章アンダンテ・マリンコーニコの美しさに止めを刺す。ほとんどロベルト・シューマンの第2交響曲に在る「憂鬱」と近い印象があるが、あれほど病的ではなく、オーボエの主題もフルートの旋律もどこか楽天的で健康的なことが救い。ここはベルグルンドの真骨頂。
さらに、終楽章アレグロ・サングイネオの活気と躍動に痺れ、後半に突如として現れる弦楽器によるアダージョ・モルトのシーンに心動く。このあたりもやっぱりシューマンの影響大。

ニールセンの音楽にやっぱり名前など不要。ただ純粋に音の流れに身も心も浸すだけで良し。
パーヴォ・ベルグルンドの職人芸に感無量。

 

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