アマチュアの力を最大限に引き出すという意味でその力量に舌を巻く。
この人は他人を感化する能力に長けているのである。
宇野功芳指揮日本大学管弦楽団によるブルックナーの第9番。
おそらく演奏者は滅法気持ちが良い。ましてや、まるである種宗教的儀式の中にあるコアな聴衆にとってはその音楽にかしずき、すがるだけのエネルギーがあるのだから堪らない。
いやいや、少々言葉が過ぎるが、それが現実だ。
意志というものの危うさを思う。創造において、否、どんな行為においても本来恣意的であってはならないのだ。何より自然の流れに逆らうことなかれ。
意志、意図が注入されると中は燃える。オーケストラがアマチュアであるという事実を差し引いても、音を割る金管群とあまりに壮絶な打楽器の轟きは、宇野さんがかねてより否定するブルックナーの自然をぶち壊すかのよう。
もっと「静けさ」を。
もちろんこの論は宇野さんのブルックナーに対する否定ではない。むしろ、その一期一会的解釈に嘆息がもれるほど。僕自身ですらその実演の最中にあったならば、おそらく相当に心動かされていたであろうことが想像できるから。
何より宇野さん自身の言葉にあるように作曲家や演奏者に対する絶対的尊敬と愛情が刻印される唯一無二の演奏ゆえ。
そんな中にあって、新星日響との「功芳の艶舞曲」、とくにシュトラウス兄弟とレハールのワルツや序曲は今でも好んで聴いているが、それに匹敵するのが、この日大管弦楽団とのブルックナーの9番である。1994年のライヴだが、当時、日大のオケは彼らの最高水準にあった。アマチュアの演奏というものはマイクを通すとアラばかり気になるのが普通だが、このブルックナーは違う。プロ並にうまいわけではなく、随所にアマチュアらしさが顔を出しはするものの、あまりマイナスには働かず、むしろ気迫がプラスになっている場面が多い。
~GS-2002ライナーノーツ
・ブルックナー:交響曲第9番ニ短調(ノヴァーク版)
宇野功芳指揮日本大学管弦楽団(1994.12.22Live)
あくまで当日その会場にいたことを想像して書いてみる。
第1楽章の圧倒的拡がり。特に、コーダにおけるそれこそ「宇宙の鳴動」と称すべき地鳴りのような音に感無量。
また、第2楽章スケルツォの爆発とトリオの愛嬌の対比。
そして、永遠の第3楽章アダージョ。演奏そのものには瑕は多いが、余裕の恰幅と重みのある音楽、あるいは各奏者が情感込めて奏するその音霊。
外観は新星日響との第8番同様ブルックナーの自然体を遵守するが、全体を通してやはり内容が少々うるさいというのが聴後の純粋な感想(もちろんよく言えばそれは「気迫」ということなのだが)。あくまで一回限りの、実演で触れるべき解釈であり、演奏である。宇野さんの熱狂的信者以外は厳しい。
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ご紹介の盤にしても、先日の、リリやナディア・ブーランジェにしても、私がご紹介し過去に話題にしたことがあるのを記憶していますが、何を書いたかははっきり憶えていないんですよね。まことに恐縮ですが、感想については完全スルーします。
今年は、ブーレーズ、デヴィッド・ボウイ、グレン・フライ、オーレル・ニコレ、ニコラウス・アーノンクール、ジョージ・マーティン、そして、キース・エマーソン
http://yoshim.cocolog-nifty.com/tapio/2016/03/post-ccaf.html
などと、大物ミュージシャンの訃報が本当に相次いでいます。
岡本様や私に、生や死についての話題が増えていたのは、音楽を愛する者の予感そのもののような気がしています。
宇野さんについてもご高齢で、レコ芸等への記事も消え、健康状態がとても心配です。長生きしていただきたいと切に願っています。
>雅之様
キース・エマーソンまで逝ってしまったのには吃驚しました。それも自殺とは・・・。
おっしゃるように、特に今年は大物の訃報が相次いでおり、大きな変化の年だと痛感しております。
それと、偶然か何なのかブログで採り上げた人たちがその後に亡くなったりしておりますから、何だか恐ろしいですわ(先日Beatlesの”LOVE”について書いた後のジョージ・マーティンの死にも吃驚しました。大往生ですが)。
ところで、「レコ芸」に宇野さんの記事がなくなっているのですか!(まったく読んでいないので知りませんでした)。
こともあろうにここ最近連続で音盤を採り上げているのでなおさら心配です。
[…] 「功芳の艶舞曲」と題する1994年のライブ盤は、同年の日大オケとのブルックナー9番とあわせ、ご本人の愛聴盤だったらしい。 愉悦に満ちる、様々な仕掛けを擁する小品集。デフォルメ含めやりたい放題でも一切の違和感なく滅法面白い。 何と生命力漲る音楽であることよ!! […]