精魂込めて歌われる絶対的表現。
エフゲニー・ムラヴィンスキーの表現の基本は、いつの時代も変わることがない。
絶対的権力者としてオーケストラに君臨した人であるがゆえの唯一無二の音楽。
金管が必要以上に咆哮し、おそらくそれは実演では決してうるさくない音楽として、聴く者の目の前に現れるのだと思う。録音で聴いてすら、音の波動にぶっ飛びそうになるほどの迫力。また、弦楽器の瑞々しく、恐ろしく速いパッセージをミスなく、強力なアンサンブルで弾き切る奇蹟。
ムラヴィンスキーが絶対的な権限を持ち、レニングラード・フィルを自分の個人芸術を実現する場としえたのは、皮肉にも、彼とレニングラード・フィルがソ連という体制の中にあったからなのである。西側のオーケストラのような「民主的」な運営と資本主義経済の中で、ムラヴィンスキーとレニングラード・フィルが続けたような芸術活動ができたとは、とうてい思えない。
~西岡昌紀著「ムラヴィンスキー—楽屋の素顔」(リベルタ出版)P210
歴史の皮肉とでもいうのか、ここにも世界の表と裏が垣間見える。すなわち人為に絶対はないのである。ムラヴィンスキーはかく語る。
私にとって総譜とは人生のドキュメントだ。総譜の響きは作品の存在の新しい段階だ。「物自体」を知ること、それは「物自体」のアトモスフェアに浸透することだ。私の探索のさかでシンフォニーのアトモスフェアの解明こそが演奏を決定する最大の課題である。
~河島みどり著「ムラヴィンスキーと私」(草思社)P264
時間と空間の、目に見えない空気をいかに見える化するかが彼の音楽人生のテーマだったということだろう。
指揮者は絶対に響きを創らない。音を紡ぎだすのはオーケストラだ。個々の団員が聴きとり、感じられるアトモスフェアを創りだすことが大切だ。私とオーケストラとの仕事は単純だ。不可欠なのは濃密な集中力、厳密な規律、稽古のシステムである。このやりかたは即興的な演奏を排除するのに役立つ。私はまず自分自身に、そしてオーケストラに戒律の絶対的遵守を要求する。オーケストラと指揮者は常に一心同体でなければならない。
~同上書P264
「アトモスフェア」という言葉がキーワード。
例えば、ムラヴィンスキーの創り出すワーグナー音楽の、練りに練られた絶対性。
ワーグナー:
・歌劇「タンホイザー」序曲(1958.11.16録音)
・楽劇「ジークフリート」~森のささやき(ヘルマン・ズンペル編)(1946.11.20録音)
・楽劇「神々の黄昏」~ジークフリートの葬送行進曲(1958.11.16録音)
・楽劇「ワルキューレ」~ワルキューレの騎行(1958.11.16録音)
・歌劇「リエンツィ」序曲(1941録音)
リスト:
・メフィスト・ワルツ(村の酒屋での踊り)(1947録音)
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団
戦中戦後の古い録音を超えての普遍性。
「ジークフリートの葬送行進曲」の、死を超越した生命力に冠絶。
「ワルキューレの騎行」は、後年の劇的表現がそのままに在る名演奏。
あるいは、「リエンツィ」序曲の、猛スピードで駆け抜けるカタルシス。
ムラヴィンスキーの解釈の下、ワーグナーの音楽がけたたましく鳴り、生き生きと再生される。
ちなみに、「メフィスト・ワルツ」は、今一つの音質ながら半端でない「うねり」が聴く者の魂を一撃する。
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