
近衛秀麿の晩年の、読響との「田園」を聴いて、宇宿允人を想った。
いずれもフルトヴェングラーに私淑し、影響を受けた人だ。
かれこれ20年近く前に聴いた宇宿の「田園」は僕が実演で聴いた「田園」の中で随一を誇る名演奏だった(あるいは、朝比奈隆が1989年に新日本フィルとのツィクルスで披露したもの)。まるでフルトヴェングラーの実演を聴いているような錯覚に陥るほど、会場で僕は恍惚となり、感激の中にあった。あれこそ夢にまで見た「田園」交響曲の真の姿だった。
続・牧歌、嵐のあとの喜びと感謝 戦後、秀麿はベルリンへは戻らず、東京交響楽団やABC交響楽団、読売日本交響楽団などの結成と育成に尽力し、晩年には自身が音楽家を志した原点に立ち戻って、地方都市や大学などのアマチュアオーケストラの指導に情熱を注いでいる。特に、近衛家のゆかりの地にある京都大学オーケストラとは長年にわたる指導によって、数々の「近衛版」による名演奏を残している。当時、クラリネット奏者として秀麿の指揮の下で演奏していた谷隆一氏は、秀麿から得たものを次のように語ってくれたことがある。
「近衛先生からは、音楽によって『生きる糧』を授けていただきました」
~菅野冬樹著「戦火のマエストロ近衞秀麿」(NHK出版)P266
音楽によって『生きる糧』という言葉が重い。
団員が思う以上に近衛にとって音楽は命そのものだったのだろうと、彼の指揮する演奏を聴いて思う。オーケストラが「より鳴る」ように楽譜を改訂して披露したベートーヴェンは今もって素晴らしい響きを届けてくれる。
何という有難さ。
早稲田大学でのリハーサルから数日後の6月2日、近衛秀麿は74年の生涯に幕を閉じた。明治、大正、昭和の激動期を生き、「人がやらないことを五十なり百なりやってから生涯を終える」と心に決めていた秀麿であったが、まさにその言葉どおりの破天荒な人生を送ったと言える。
近衛秀麿の指揮ぶりを、私たちはもう見ることはできない。しかし秀麿が残した数々の楽譜を再現すれば、秀麿はそのたびに蘇り、聴く者の心に感動を与えるだろう。秀麿にとって「命と同じくらい大切な楽譜」が存在する限り、それは未来永劫、途絶えることはない。
~同上書P266
文字通り感動を与えていただいた「田園」交響曲。杉並公会堂での実況録音。
ベートーヴェン:
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(近衛版)
・劇音楽「エグモント」序曲作品84
近衛秀麿指揮読売日本交響楽団(1968.3.20&21Live)
近衛版は、原典に比較して響きがよりロマンティックに、厚みを持った音響を醸し、それこそベートーヴェンが感じたであろう「大自然と一体になる心境」を音で綴った、人類本来の懐かしさと慈愛に満ちるものだ。
そしてまた、当時の日本のオーケストラの技量は決して高いものではなかっただろうものの、実に音楽的で、技術を超えた豊かな心を表するものに止揚されている。
第1楽章「田園に到着の際、人間にわき起こる心地よい、陽気な気分」の主題提示から近衛の独壇場。改訂による音楽的効果は素晴らしく、一期一会で聴く限りにおいてはっとさせられる瞬間に溢れる。白眉はやはり終楽章「牧人の歌—嵐の後の、快い、神への感謝と結びついた感情」だろう。
ところで、本アルバムのライナーノーツには1923年の初渡欧時の興味深いエピソードが披露されている。
パリに失望した秀麿は1923年5月14日、次の目的地ロンドンへ向かうため、パリ郊外のル・ブルジェ空港にいた。この日は生憎天候が悪く、飛行機は一向に飛ぶ気配がない。秀麿が搭乗手続きの開始をロビーで待っていると、一人の見知らぬ男性が声をかけてきた。「どうしても急がなければならない用事があるので、あなたの搭乗券と交換して欲しい」・・・と。
男からの申し出を承諾した秀麿は、当初の予定より一便遅い飛行機に乗ることにした。ところが秀麿が乗るはずだった飛行機は、悪天候の中飛び立ち、墜落してしまったのだ。事故機の搭乗名簿には秀麿の名前があったことから、日本では大騒ぎになったという。男に搭乗券を譲っていなければ、近衛秀麿の生涯に幕が下ろされていたと思うと、秀麿には強運も味方していたのだろう。
(日本人マエストロ「近衛秀麿」その知られざる海外での活動秘話② 菅野冬樹)
~NYCC-27293ライナーノーツ
僕たちが因果律の中にあることは自明だが、秀麿が自己を避けられたのは、単なる幸運というものではなく、近衛家には余徳があり、過去の善根によりその時に死ぬことは自ずと避けられたというわかりやすい事例だ(兄の文麿は済渡されている)。
大自然の、大宇宙の奥妙さを知覚せよ。
近衞秀麿指揮読響のベートーヴェン「田園」ほか(1968.3録音)を聴いて思ふ 