鈴木優人指揮BCJモンテヴェルディ歌劇「ポッペアの戴冠」(演奏会形式)

会場は超満員。
鈴木優人指揮バッハ・コレギウム・ジャパンによるモンテヴェルディの歌劇「ポッペアの戴冠」を聴いた。第1幕90分、第2幕60分、第3幕50分、それぞれ休憩をはさみ、終演が20時10分と長丁場。幾度も繰り返されるカーテンコールに感無量。
素晴らしいコンサートだった。

鈴木優人はこのオペラを「勧悪懲善のエンターテインメント」だという。それこそ殺人を筆頭に、あらゆる悪だくみの末、王ネローネの不倫相手であったポッペアが皇后オッターヴィアを追い落とし、自らが皇后の地位に就いて幕が下りるというのだから、ハッピーエンドというのかどうなのか。オリヴィエ・メシアンが自身の歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」を「犯罪が一切登場しない初めてのオペラだ」と語っていたけれど、「ポッペアの戴冠」は犯罪だらけの物語の筆頭なのではないかと思われるほど、終始策略と奸計に満ちている。

「ポッペアの戴冠」が作曲された時代、つまり、16世紀から17世紀、すなわちルネサンスの頃というのは、人間が一層人間らしくあろうとした、芸術も知性だけでなく、人間の俗性までをも表現する手立てになった時代であったようだ。

北方で近代科学が隆盛をむかえるとき、地中海ではもっと人間のこころの襞に密着した芸術と知性が息をはずませている。たとえば、オペラという楽曲形式はこの没落のイタリアから、なまなましい呱々の声をあげる。16世紀末、器楽曲全盛のなかで、人間の音声を戯曲にからめて、音楽エンターテインメントの総合をなしとげようと試みた。オペラほどに人間の感性に訴えるものもあるまい。
そればかりか、知性が支えるヒューマニズムとして、いくつもの実例をとりあげることができる。身辺すべてに明晰な真理と道義の鏡をかざるよりは、人間そのままの悪と愚昧と欲望と逸脱を包容しつつ、悲しみと悦びとを同時にいきぬく知性や感性に、わたしたちは止めようもない共感をいだくことがある。
樺山紘一著「世界の歴史16 ルネサンスと地中海」(中央公論社)P387

そう、今日の演奏も圧倒的感動を聴衆に与えてくれた。
オーケストラの巧さもさることながら、歌手一人一人の力量の凄さは並みではなかった(あの声量のパワーはいかばかりか)。二重唱やアンサンブルも抜群。物語の筋の是非はともかくとして、これほど完膚なきまでに圧倒されたオペラ公演がほかにあったかどうなのか。

モンテヴェルディ生誕450年記念
2017年11月23日(木・祝)16時開演
東京オペラシティコンサートホール
・モンテヴェルディ:歌劇「ポッペアの戴冠」(アラン・カーティス版)(演奏会形式)
森麻季(ポッペア、ソプラノ)
レイチェル・ニコルズ(ネローネ、ソプラノ)
クリント・ファン・デア・リンデ(オットーネ、カウンターテナー)
波多野睦美(オッターヴィア、メゾソプラノ)
ディングル・ヤンデル(セネカ/警護官、バス)
森谷真理(フォルトゥナ/ドゥルジッラ、ソプラノ)
澤江衣里(ヴィルトゥ/ヴェネレ、ソプラノ)
小林沙羅(アモーレ/ヴァレット、ソプラノ)
藤木大地(アルナルタ/乳母/セネカの友Ⅰ、カウンターテナー)
櫻田亮(兵士Ⅰ/ルカーノ/セネカの友Ⅱ、テノール)
加耒徹(メルクーリオ/セネカの友Ⅲ/執政官、バリトン)
松井亜希(ダミジェッラ/アモーレⅡ、ソプラノ)
清水梢(パッラーデ/アモーレⅢ、ソプラノ)
谷口洋介(兵士Ⅱ/リベルト/護民官、テノール)
鈴木優人指揮バッハ・コレギウム・ジャパン
田尾下哲(舞台構成)

僕は、第1幕でディングル・ヤンデル演じる哲学者セネカが徐に説く「力が道理を駆逐すると判断を誤る」という言葉にシンパシーを覚え、そして逆にプロローグの、「世界を変えられる」という愛(アモーレ)の言葉に違和感を覚えた(愛には争いもなければ、企てもないゆえ)。しかし、ここでの愛(アモーレ)は、もっと人間的な、どちらかというと享楽に近い、下世話な性愛をモデルにしているのだろう。それこそ「知性が支えるヒューマニズム」の体現なのだと考えた。

権力を獲得するためなら何でもするという狡猾さが歌唱含め全身から醸されていた、森麻季演じるポッペアが圧巻。あるいは、皇帝ネローネを演じたレイチェル・ニコルズの男性顔負けのエネルギーとパワーにもひれ伏したいくらい。クリント・ファン・デア・リンデ演じるオットーネはいじけた様子が上手に表現されていて素晴らしく、波多野睦美のオッターヴィアのにじみ出る悲しみと嫉妬心の表現の深さも完璧だった。

続く第2幕の、世界は闇の中にあるというドゥラジッラの見解はおそらく正しい。
それにしてもセネカのいなくなる前と後の舞台のエネルギーの違いに驚嘆。それはまさにクラウディオ・モンテヴェルディの創造力の賜物だろう。最後の、ポッペアの、アモーレの協力を得て見事に成就する企ての雄弁さ(BCJの巧さに舌を巻く)。

そして、第3幕でも策略は続く。大団円、ポッペアが戴冠の運びとなり、皇帝ネローネとの二重唱を歌うも、愉悦の音楽の爆発(それはそれは素晴らしかった)に、悲しいかな僕の心は正直ついていけなかった。

日本では聞いておくべき遺産という認識が中心で、直感的に音楽に引き込まれるところに主眼が置かれていなかった。歌がたくさんある19世紀以降のオペラに比べると朗唱中心で、せりふの少ないミュージカルと思っていただいて構わない。そこが記事の見出しになっては困るんですが。
(2017年11月13日月曜日付朝日新聞夕刊)

それでも鈴木優人のこの言葉通り、今日はとても美しく魅力的な公演だった。

 

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