10数年前聴いた、ルドルフ・バルシャイが読響に客演し、披露したショスタコーヴィチの室内交響曲(バルシャイ編)と交響曲第5番は(示威的でなく、極めて純粋な音楽が感じられ)とても素晴らしかった。
自分の音楽が成功を収めたという知らせは、満足以外のなにものでもないと思われるが、わたしには真底からの満足はなかった。自分の音楽が西欧で演奏されるのは嬉しいことだが、しかし、その音楽について饒舌に語られ、本質とは関係のないことまで語られるのは望ましくない。
~ソロモン・ヴォルコフ編/水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」(中公文庫)P246
「証言」の信憑性は今となってはないに等しいが、それでもこの言は、実際作曲家の口から出たものとしてとても的を射ているように僕には思われる。例えば、スターリンの死直後構想され、発表の後物議を醸した交響曲第10番は、(確かにショスタコーヴィチ自身のイニシャルが刻まれているにもかかわらず)決して私的なものでなく、同時に国家のイデオロギーすら超えた純粋器楽曲として受け取ることが可能な作品(僕にはそう感じられる)だ。(当時も今も?)音楽にまつわる様々な見解が飛び交っているものの、意味を深追いすることなく、ただひたすら純粋に浸ることで、新たな側面が見えてくるもの。
・交響曲第9番変ホ長調作品70(1995.7.12,14, 9.14&1996.4.26録音)
・交響曲第10番ホ短調作品93(1996.10.15&24録音)
ルドルフ・バルシャイ指揮ケルン放送交響楽団
作曲者が怒りを覚えるのも当然。
自らが赤裸々に語ったことならまだしも、他人の勝手な想像など当てにはならぬもの。ましてや、創作から何十年の時を経、今や世界的な傑作として独り歩きする作品であるならなおさら。意味があろうとなかろうと、そんなことはもはやどうでも良いこと。闘争あり、静寂あり、そして、祈りあり。どの瞬間も美しさが際立ち、何より音楽そのものが有機的に響く。僕は、そのことだけで満足だ。
ショスタコーヴィチの魂乗り移るバルシャイの巨大かつ深遠な音楽を前に、僕たちにできることは虚心に耳を傾けることのみ。
「貴方々、金キット持っていない。」
「そうだ。」
「貴方々、貧乏人。」
「そうだ。」
「だから、貴方々、プロレタリア。―分る?」
「うん。」
ロシア人が笑いながら、その辺を歩き出した。時々立ち止まって、彼らの方を見た。
「金持、貴方々をこれする。(首を締める恰好をする。)金持だんだん大きくなる。(腹のふくれる真似。)貴方々どうしても駄目、貧乏人になる。―分る?—日本の国、駄目。働く人、これ(顔をしかめて、病人のような恰好、)働かない人、これ。えへん、えへん。(偉張って歩いて見せる。)」
それ等が若い漁夫には面白かった。「そうだ、そうだ!」と云って、笑い出した。
「働く人、これ。働かない人、これ。(前のを繰り返して。)そんなの駄目。―働く人、これ。(今度は逆に、胸を張って偉張ってみせる。)働かない人、これ。(年取った乞食のような恰好。)これ良ろし。―分る?ロシアの国、この国。働く人ばかり。働く人ばかり、これ。(偉張る。)ロシア、働かない人いない。ずるい人いない。人の首しめる人いない。―分る?ロシアちっとも恐ろしくない国。みんな、みんなウソばかり云って歩く。」
~小林多喜二著「蟹工船・党生活者」(新潮文庫)P52
そういえば、90年近く前に書かれたこの小説が、今から10年ほど前ブームになった。人間の思考とは単純なものだ。そうやって人は信じていくのである。歴史は繰り返す。
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