今朝、24歳のグールドがマーラーの「復活」を指揮している姿を見て、彼がその後長生きをして、十分に指揮者として認知されていたなら、その暁にはどんな風になっていたのだろうかと勝手に空想した。彼は最晩年にワーグナーの「ジークフリート牧歌」を録音したが、その後はメンデルスゾーンの「フィンガルの洞窟」を予定していたという。何ともグールドらしい面白い選曲。ならば、「フィンガル」の次は何だろう?僕などはついついブルックナーあたりではないかと考えるが、例えば第9交響曲などはグールドが指揮するととても高貴で神がかり的なものになったのではないかと想像するだけでいよいよ鳥肌が立つ。
昔、ブルックナーを聴き始めの頃、確か第9は第7、第4「ロマンティック」の後にじっくり取り組んだ曲目だと記憶するが、当時の金銭的状況から専らNHK-FMからのエアチェック・テープで、ホルスト・シュタインの実況録音によるものを繰り返し聴いていた(オケはどこだったか覚えていないが、多分N響)。それこそ名曲解説全集を片手に、隅から隅まで楽曲を覚えようと来る日も来る日もこの音楽を聴き続けた。確かに今ほど人生経験を持たないティーンエイジャーの時、この音楽の神髄が真に理解できたのかと問われれば、それは「?」だが、それでもブルックナーという作曲家の素晴らしさを朝比奈先生と同じくらいのレベルで僕に教示してくれた音楽家のひとりだから、やっぱり頭が上がらない。
その後、ヨッフムやシューリヒトの名録音に触れ、朝比奈隆の実演を何度も聴き、ついには最晩年のヴァントの超絶名演奏を聴いて、この音楽への「想い」はある意味終止符を打ったが(実際それ以降生演奏はきいていないんじゃないかと思う)、そろそろまた新世代のブルックナー演奏に触れ、新たな感動を得てみたいと思っていたところだったから、グールドについての空想もその影響があるのかもしれない(さて、新世代のブルックナー演奏、どのあたりから攻めてみようか)・・・。
ちなみに、グールドがブルックナーを演ったら、どんな演奏になるのだろうか?朝比奈やヴァントのような超正統派の音楽にはなるまい。ならば、バーンスタインが晩年にウィーン・フィルと録音したような粘度の極めて高い演奏か?いや、違うだろう。
ブルックナー:交響曲第9番ニ短調
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1976.7.25Live)
カラヤンの実演によるブルックナーはこの音盤しか聴いたことがない。基本的にカラヤンのドイツ物、特にシンフォニーの数々はいただけないという先入観を持って長いこと無視してきた傾向があるのだが、このブルックナーに関しては意外に悪くない。確かにごつごつ感の少ない、丸みを帯びた女性的なフォルムで、野人ブルックナーっぽくないといわれればそうだが、いわゆるスタジオ録音と違って生演奏のカラヤンというのはやっぱり一度は触れておくべきものだったんだろうということがわかり、後悔の念を抱かせてくれる点が何とも憎らしい。そう、スマート、理知的でありながら、熱いのである。そのあたりがグールドの「実演」の雰囲気に近いのではと思うのだ。まぁ、ほんとに独断と偏見による「空想」なので異論もあるだろう。そのあたりはお許しを。
地球上で「人間が一番偉い」かのように振舞うのっていかがなものか。パラダイム・シフト。我々はひとりひとり地球という「ひとつの幹」に生かされている「枝葉」のようなもの。空気や水をいただいて生きている。
おはようございます。
グールドとカラヤン、録音、レコード重視という共通項の他に、音楽性でも共通点を見出されておられることは、意外に論じられることのない盲点で、秀逸な着眼点だと膝を打ちました。
>確かにごつごつ感の少ない、丸みを帯びた女性的なフォルムで、野人ブルックナーっぽくないといわれればそうだが、
>スマート、理知的でありながら、熱いのである。そのあたりがグールドの「実演」の雰囲気に近いのではと思うのだ。
ブルックナーの音楽の持つ同一音型の執拗な繰り返しによる巨大なミニマム性は、ツタのような「つる性植物」を思い起こさせるところもありまして、その方向性では、カラヤンやグールドの音楽性の持つ「女性的なフォルム」は、じつに嵌っているのではないでしょうか(しかし、本当は毒牙を隠した「世を忍ぶ仮の姿」なんですよね・・・笑)。事実おっしゃるように、カラヤン&VPOの9番や8番は彼にしか出来ない名演だと私も信じています。
グールドもカラヤンも、「ポトス」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%88%E3%82%B9
のように人工的に作られた美しい園芸品種の観葉植物を連想させるところがありませんか(実演体験がないので尚更かもしれませんが)。
しかし、園芸店やホームセンターで売られている鉢植えのおしゃれでかわいらしいポトスも、自生地では大木にからまって数十メートルにも伸び、長い気根を出すそうです。
(↓下のサイトの写真で、雰囲気を味わってください)
http://www.yonemura.co.jp/main/engei/mame/006/006d.htm
グールドは「ポトス」のようにレコーディング・スタジオという狭い日陰の室内空間で活動することを生涯好んでいましたが、ブルックナーという大木にからまって数十メートルにも伸び、長い気根を出す野生の彼も観たかったです(あるいは、がんじがらめに巻き付き、栄養を奪い取り、巨木ブルックナーを枯らしたかもしれませんが・・・笑)。
いずれにせよ、そんな楽しい想像をさせること自体、「草食系」男子の鑑です! 天晴れ、グレン・グールド様!!
>地球上で「人間が一番偉い」かのように振舞うのっていかがなものか。パラダイム・シフト。我々はひとりひとり地球という「ひとつの幹」に生かされている「枝葉」のようなもの。空気や水をいただいて生きている。
同感です!!
>雅之様
おはようございます。
>ブルックナーの音楽の持つ同一音型の執拗な繰り返しによる巨大なミニマム性は、ツタのような「つる性植物」を思い起こさせるところもありまして、その方向性では、カラヤンやグールドの音楽性の持つ「女性的なフォルム」は、じつに嵌っているのではないでしょうか(しかし、本当は毒牙を隠した「世を忍ぶ仮の姿」なんですよね・・・笑)。
実に上手い表現です!
それに、おっしゃるように「ポトス」のような人工性ありますね。
>ポトスも、自生地では大木にからまって数十メートルにも伸び、長い気根を出すそうです。
これは知りませんでした。
>ブルックナーという大木にからまって数十メートルにも伸び、長い気根を出す野生の彼も観たかったです
同感です。ただし、どちらかというと「がんじがらめに巻き付き、栄養を奪い取り、巨木ブルックナーを枯らした」と思います。彼がスタジオにこもったのは、潜在意識でそういうことがわかっていたからなのかもしれませんね。それはそれで面白いんですけどね。
グールドは1953-1964年まで、オンタリオ州、ストラトフォード音楽祭に出演、音楽監督も努めました。マーラー、交響曲第2番、ハ短調「復活」を指揮したのはストラトフォード音楽祭の時でした。しかし、その後、背中の傷みを訴え、コンサートをキャンセルしたといいます。グールドの背中の痛みは少年期、トロントの北、シムコウ湖畔の別荘に行っていた時、背中を打って怪我をしたことがきっかけで後遺症が残りました。さらに、前かがみの姿勢でピアノを弾く姿勢も背中を痛めることとなり、生涯苦しめられました。それが演奏活動からの隠退も招いた一因ともなりました。
グールドはストラトフォード音楽祭では演奏はもとより、音楽監督、運営にも当たり、ブリテン、ショスチコーヴィチ、フォスにも作品を依頼して演奏させていました。しかし、フォスの場合、グールドはコーネリア夫人との恋愛関係に発展、フォスの家庭を壊すようなことをするといった大きな過ちを犯し、自らの生涯最大の汚点を作ってしまうことになってしまいました。
こんばんは。
グールドとコーネリア夫人について、面白いサイトをみつけました。
http://www.thestar.com/article/249787
http://honyaku.yahoofs.jp/url_result?ctw_=sT,eCR-EJ,bT,hT,uaHR0cDovL3d3dy50aGVzdGFyLmNvbS9hcnRpY2xlLzI0OTc4Nw==,qlang=ja|for=0|sp=-5|fs=100%|fb=0|fi=0|fc=FF0000|db=T|eid=CR-EJ,
このあたりまでの情報は、誰でも調べる気になれば簡単に得られるということですね。問題は、この情報をどう捉えるかですね。
Good morning.
http://www.amazon.co.jp/Secret-Life-Glenn-Gould-Genius/dp/1550229192
I want to read this book.
For all that he’s given to humanity, it’s great to know that Gould was conscious of his contributions, and was even able to indulge his own humanity sometimes.
http://www.ink19.com/issues/july2010/printReviews/secretLifeOfGlennGould.html
I am agreeable, too.
マイケル・クラークソン氏の記事は「音楽の友」2007年10,11月号に鈴木圭介氏の訳で掲載されました。私は、この記事のコピーをよく読んでいます。コーネリア夫人のフォスへの罪悪感、グールドへの失望がありありと綴られていて、複雑な思いになりました。
この恋愛関係はケイティ・ハフナー「3本脚のロマンス」にもあり、こちらの方がより生々しいものになっています。クラークソン氏の本も翻訳に乗り出し、ショパンで引き受けてくれそうだったものの、池袋にあるべンチャー系出版社、道出版が版権を取得し、翻訳家に依頼していたため、ヘレン・メサロス「ブラヴォー フォルティッシモ グレン・グールト」へ切り替えました。こちらは日本語訳がありません。
道出版は音楽書の出版実績といえば、マイケル・ジャクソンのものくらいで、余りある方ではありません。中には文学賞を受賞したものも出版しているとはいえ、一方では暴力団の本も出しているといった、怪しげで胡散臭いような面もあります。それで、私は、国立音楽大学の図書館へ行った折、相談してみると、版権・翻訳権は原則1年有効だとのこと、それならば、いずれ出版できるだろうと感じています。
私はクラークソン氏、ハフナー女史と英語でメールを交換して、人間グレン・グールドの悲劇を考察してきました。来年、日本音楽学会、全国大会でグールドの恋愛と病気について、取り上げることにしています。また、クラークソン氏、ハフナー女史ともメールを交換していくつもりです。
畑山千恵子様
いつもお世話になります。
貴重な翻訳のお仕事のご成功を、心よりお祈り申し上げます。
畑山様の翻訳が出版されましたら、真っ先に購読いたします。
ところで、畑山様は、こちらのブログでも、他の方のブログのコメント欄でも、グールドの人生が「悲惨」だったということを再三にわたり強調しておられますが、それは、モーツァルトやベートーヴェンやシューベルト他多くの大芸術家と同様に「悲惨な人生」だったという意味に解釈してよろしいのでしょうか?
また、一度でも不倫の過ちがあった過去のある大芸術家も、グールド同様「生涯最大の汚点」を残したということでよろしいのでしょうか?
それとも、グールドだけが何か特別なのですか?
雅之さまのご指摘にお答え申し上げます。グールドの生涯は悲惨だったかと申しますと、母親という存在から自立できなかったゆえ、様々な面で社会不適応を起こしていたことは確かでしょう。グールドは精神科医の診察を再三受けるように説得されても聞き入れませんでした。仮に、グールドが精神科医の診察を本気で受けていたならば、人生はかなり異なったものになったと感じています。
グールドの薬物依存はすさまじいもので、病気でもないのに病気と思い込んでは医者に行って、馬鹿にしたような態度を取っては薬をもらうということの繰り返しでした。薬物依存にしても、少年期から始まっていたそうです。医学書を自己流に読み漁り、医者に薬をねだるようなこともあり、医者も呆れていたそうです。「自分は病気ではないか」という思い込みから薬を過信して、医者に嫌われていたようです。生涯、グールドは精神障害に苦しんでいました。
何よりも母親から自立できなかったことがグールドの生涯のキーワードでしょうね。母親がピアニストにしたいという一心だったとはいえ、かえって過保護にしたことが社会不適応を招いたことは重要です。さらに、両親こぞって神様のように息子を崇拝していたことも一種の人格障害を引き起こしてしまいました。
古今の芸術家たちの不倫の過ちについて、ヴァーグナーとドビュッシーの例を見ると、ヴァーグナーの場合、コージマとハンス・フォン・ビューローとの結婚生活は決して幸せでなかったようでしたから、コージマとしてはヴァーグナーとの再婚を望んでいたようです。ドビュッシーはエンマ夫人とは駆け落ちしたものの、結婚生活は幸せともいいがたいものでした。
ベートーヴェンとアントーニエ・ブレンターノとの場合、家庭内離婚という状態だったといいます。こうした事例は一概には批判しがたいものがあります。
さて、グールドはどうか。ルーカス・フォスとコーネリア夫人との結婚生活は、ルーカスの女性関係もあってか、すきま風が入っていた面もありました。そこへグールドが入ってきて、コーネリア夫人もグールドに惹かれるようになりました。お互い惹かれるようになり、グールドはコーネリア夫人に結婚を申し込むといった、略奪愛へと走って行き、コーネリア夫人は子供たちと共にトロントへ移り住みました。しかし、トロントへ移り住んですぐ、グールドはパラノイア、フォアビアといった精神障害を起こすようになり、コーネリア夫人に対しても疑い深くなったりして、コーネリア夫人と子供たちも耐えられなくなり、ついに、ルーカス・フォスの元へと帰っていきました。グールドはフォスの別荘に押しかけたり、4年間、電話をかけ続けたものの、コーネリア夫人は応じませんでした。
私は、結果としてみた場合、フォス夫妻の隙間風があったとはいえ、結果として、グールドはフォスの家庭を壊すといった、大きな過ちを犯してしまったと見ています。コーネリア夫人も自らの過ちを悔いていたのでしょうね。この恋愛関係の間、グールドは両親とは疎遠で、両親も息子が子供もいる人妻に手を出していたことなど思いもよらなかったでしょう。両親は、人妻との恋愛に対してご法度という態度を取っていましたから、そうした面から見ても、やはり、大きな過ちを犯したと見てもよいでしょう。
やはり、グレン・グールドの生涯最大の汚点になったことは否めないかもしれません。
畑山千恵子様
詳細な御教示ありがとうございます。
なるほど、よく理解できました。まったく同感です。その意味では、ジャズやロックの大物ミュージシャンなんて薬をやっている人が多いので、グールドと同じく人間の屑以下の人が多いですし、ブラームスなんかもフォスの家庭を壊したグールドと同じようなことをシューマン家でやっていると思うので、やっぱり人間の屑以下ですよね、マザコンという意味でも共通ですし。
それに第一、天才芸術家なんて、まともな結婚さえできない人も多いし、精神障害、人格障害、頭のおかしい人も多いし、健常者の我々からみたら、悲惨で、じつに哀れですよね。
我々は、あんな人たちにならなくて本当によかったですよね。また、岡本さんも前におっしゃっていましたが、あんな人たちが近くにいなくて本当によかったですよね(笑)。
人間も社会も芸術家の世界も、クリーンでなきゃいけませんよね。大相撲の人たちなども人間の屑以下なので、あんな裏社会と結び付いた伝統芸能なんか、なくなればよいと心底思います。歌舞伎の人も、梨園はドロドロした部分が多くて、屑の人たちの集まりですよね。
源氏物語
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E
なんかも、この世から消えてなくなればいいですよね。社会の不道徳を助長しますので・・・。
不道徳だった作曲家や演奏家のCDは、直ぐにでも発売禁止にするべきだと強く思います。このままでは社会に悪影響を与えますよね、ブラームスのCDもグールドのCDも・・・。
これからも、グールドの話題が出るたびに、いろいろ、彼の悲惨で、悲劇的で、哀れな人生について教えてください。私も、人生の反面教師にしたいと思います。
>畑山千恵子様
>雅之様
こんばんは。
1日ブログの更新を空けている間に随分議論が白熱していて吃驚しました。
雅之さんご紹介のグールドとコーネリア夫人とのことが書かれたサイトは以前に畑山さんからご紹介いただいていたものですね。勉強になります。
とはいえ、雅之さんの最後のコメントはあまりに毒舌です。これは正直いただけません。雅之さんのコメントを書かれるスタンスは以前からおっしゃっているようにあくまで対立軸で考え、思考を深めるという観点であることは僕自身は納得しておりまして、これまでも喧々諤々とやりとりをさせていただいているのですが、あくまで僕との間のやりとりでないと誤解を生む可能性があります。
例えば、大相撲に関して本当にそうは思われていないですよね?僕は先日あるところで講演をした際、大相撲の賭博問題についても触れましたが、やっぱり「清く正しく」はおかしいと思うのです。表と裏があり、共存しているのが社会であり、地球だと。それによって調和が保たれているのですから。
マスコミが騒ぎたてることで世間が同調する。それによって悪といわれるものが除外され、バランスがみるみる崩れてゆく。
おかしいです。本当におかしいです、今の世の中は。
それに不道徳な作曲家や演奏家のCDについての見解も「本音」じゃないですよね?まるで喧嘩を売っているように感じます。芸術というのは「負の美学」ですから、彼らはまともじゃなくていいんです。
とここまで書いて、雅之さんの意図がわかりました。
以前から僕が書いたりしている「あんな人たちが近くにいなくて本当によかった」という言葉、根に持たれていますね(笑)。
芸術的にずば抜けていたならまともじゃなくていい、というようなことを以前僕は言ってしまいました。しかし、一方で芸術的な天才は人間的にはどうしようもない奴が多いとも言ってます。
確かに矛盾しています。失礼しました・・・。m(_ _)m
我々はグールドについてもブラームスについても、あるいはベートーヴェンについても残された楽曲を享受することだけでしか彼らを感じることができません。人間性についてとやかく言うのは確かに間違っているのかもしれません(どんな人生だろうとその全てが糧になっていると思われるので)。
まぁ、それぞれの個人的な意見・見解です。
こうやって議論できることは素晴らしいことなので、ひねくれず(笑)、ストレートに思考を深めてまいりましょう。あ、僕が悪いのかな?(苦笑)
畑山様も毎々詳細なご教示ありがとうございます。
とても勉強になります。
これに懲りず今後ともよろしくお願い申し上げます。
>雅之様
やっぱり世のすべては陰陽で成り立っていますから、無くなってしまえと思っても無くならないですよね、源氏も、グールドのCDもブラームスのも。
おっしゃりたいこと、よく理解できました。
ありがとうございます。
それにしても雅之さんの勇気ある喧嘩腰のコメント、いつも勉強になります。根底に「愛」があるからですかね?(笑)
グールドの晩年はあらゆる面で悲惨なものでした。まず、1975年、母フローレンスが亡くなり、その頃から高血圧、尿酸値、痛風といった、今までの不摂生な生活様式が招いた病気、そして、1977-78年、手の故障に苦しむことになりました。
それと同時に、いままで親交のあった人たちとの仲たがいが続きました。
精神科医オストウォルド、スティーブンズとは、オストウォルドがシューマンの伝記を書いていたということで親交を断ちました。また、長年の仕事仲間だったアンドリュー・カズディンとの関係の断絶、カナダの公共放送局CBCとの断絶もあって、それまでの活動ができなくなってしまいました。一方で、ロクソラーナ・ロスラック、モニカ・ゲイロードといった女性たちとの恋愛関係もありました。しかし、彼女たちとも別れてしまいました。
さらに、父バートが再婚したことは亡き母フローレンスのことを忘れられぬグレン・グールドには気に入らないことでした。父の結婚式には付き添いとして参列してほしいということだったとはいえ、参列しませんでした。1980-82年、グールドの周りには人がほとんどいなくなってしまいましたし、これまでのような活動も困難になりました。
放送とレコーディングによって自らの演奏活動を進めていくにもできなくなったとはいえ、映画音楽製作、指揮活動も行ったものの、1982年9月27日、50歳になった直後、脳卒中に倒れ、10月4日、悲惨な死を遂げていきました。いとこのジェシーがいたとはいえ、やはり、つまらないことから人を失ったことは大きく堪えたようです。
おはようございます。
今朝、東西芸大音楽学部の昨年度の入試問題を見ていたら、こんな出題がありました。
問3
次の音楽史上登場する人物を、悲惨な生涯だった順に並べよ。
①モーツァルト
②ベートーヴェン
③シューベルト
④シューマン
⑤ブラームス
⑥ブルックナー
⑦グレン・グールド
⑧雅之・岡本・畑山 他、多くのクラヲタ諸氏
これは難問ですね。トップが⑧なのは衆目の一致するところで正解なのでしょうが、後は全然わかりませんでした。
>畑山千恵子様
おはようございます。
幼少期の母親からのストローク欠如というのは人間にとって最も厳しい試練かもしれません。人間関係をスムーズに構築する術を体得できないまま大人になってしまうからです。
本当は人とつながっていたいという願望が人一倍強いながら、ついつい「交流のゲーム」をしてしまう。まっすぐに、すなおに、人と交流したいのにできない・・・(その方法がわからない・・・)。
>つまらないことから人を失ったことは大きく堪えたようです。
そういうことなんでしょうね。
>雅之様
おはようございます。
これは確かに難問です!
①~⑦は、本人に回答させたら「絶対に僕の人生は悲惨じゃない!」と怒号をあげて否定しそうです。
しかし、⑧については雅之さんがおっしゃるとおり肯定すると思います。
ということは⑧はトップではありません。
本人に自覚があるということはそれほど大した問題じゃないからです。むしろ、自覚のない人の方が怖い。
作曲家それぞれに質問してみたかったなぁ。
「あなたの人生は悲惨だったですか?」って。