ポリーニ・プロジェクト2018 II ハーゲン・クァルテット

月に大気がないことは、月をいっそうあっぱれな天体にしている。
松岡正剛「ルナティックス—月を遊学する」(中央公論新社)P114

後期ベートーヴェンの世界があっぱれなのは、そこに何もないからだと僕は思った。
嬰ハ短調四重奏曲作品131の狂気(あれはまさに月世界と相似形)。僕たちが見ている世界はすべて幻で、本当は何もない、「本来無一物」といわれる世界なのだ。
ハーゲン・クァルテットが繰り広げた恐るべき時間と空間。何という集中力、何という遠心力。会場の、微動だにしない空気がベートーヴェンを一層聖なるものに仕立てたよう。

なぜ月には大気がないのか。大気が逃げ出してしまった、いや、月が大気を放逐したからである。これは、月の重力値が地球の6分の1にすぎない事情によっている。もし太古の月に空気があったとしても、表面重力が低いためにそことどまってはいられなかったはずなのだ。
~同上書P115

僕たちは極限まで突き詰められたエネルギーに近寄る術がなかった。あまりに遠くで、ベートーヴェンの音楽が、音楽だけが鳴っていたように僕には思われた。一触即発、途方もない楽想があちこちに浮遊する。時に静かに、時に爆発し。

第1楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポ・エ・モルト・エスプレッシーヴォの浄化。音楽は時計回りに弧を描く。何と神聖な音調か。そして、眠りから覚めるかのように弾ける第2楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ。短い第3楽章アレグロ・モデラートは、強いて言うなら自家発光する月光の如し。それは、続く第4楽章アンダンテ・マ・ノン・トロッポ・エ・モルト・カンタービレ(の変奏)が一層女性的な響きを醸すのに助力する。

ことほどさように、月もみずから自家製の月光をわずかに放出しているのだが、そのまたほんの一部しか地球には届いていないということになる。
~同上書P116-117

ちなみに、今日の演奏は、第5楽章プレストからギア・チェンジが施されたようだ。ここから音楽は一層厳しくも険しいものになり、クァルテットはただただ「無の世界」を描き出すことに無心で奔走していたように僕には思われた。短い第6楽章アダージョ・クワジ・ウン・ポコ・アンダンテの、突如現れる人間的感情に涙し、ついに終楽章アレグロでは、熱に冒されたかのように一気呵成に音楽は世界を駆け抜けるのである。素晴らしかった。

ポリーニ・プロジェクト2018 II
2018年10月13日(土)17時開演
トッパンホール
・ヴェーベルン:弦楽四重奏曲(1905)
・ヴェーベルン:弦楽四重奏のための5つの楽章作品5
・ヴェーベルン:6つのバガテル作品9
休憩
・ベートーヴェン:弦楽四重奏曲第14番嬰ハ短調作品131
~アンコール
・シューベルト:弦楽四重奏曲第13番イ短調D804「ロザムンデ」~第2楽章アンダンテ
ハーゲン・クァルテット
ルーカス・ハーゲン(第1ヴァイオリン)
ライナー・シュミット(第2ヴァイオリン)
アイリス・ハーゲン=ユダ(ヴィオラ)
クレメンス・ハーゲン(チェロ)

マウリツィオ&マリリッサ・ポリーニによってプロデュースされた、実に精妙なプログラム。
前半は、怪我による来日不能のため、ヴィオラがヴェロニカ・ハーゲンからアイリス・ハーゲン=ユダに交替、当初予定のプログラムは、アントン・ヴェーベルン3曲に変更された。冒頭から「すごいものを聴かせられた」という印象。
稀代の作曲家の進化と深化、あるいは前衛と革新、しかもそれが、100年前のベートーヴェン晩年の世界に一直線でつながるのだから言葉がない。いまだ浪漫の匂い薫る四重奏曲は3つの部分からなる、いわば漆黒の美しさ。続く、作品5での、急緩交互に入り乱れる無調の大いなる緊張感!極めつけは6つのバガテル作品9!

アーノルト・シェーンベルクは、1924年の、作品9出版にあたって楽譜の序文に次のように書いた。

一篇の長編小説をたった一つの身振り、一つの幸福を一息の呼吸で表現すること。これほどの集中性は、一言も愚痴をもらさないような精神にのみ、見出される。
「作曲家別名曲解説ライブラリー16 新ウィーン楽派」(音楽之友社)P144

何とも言い得て妙。実際に音に触れると、よくもまぁこれほど短い時間の中に悠久を閉じ込めたものだと感心する。願わくばアルバン・ベルクも聴きたかったが、このヴェーベルンが聴けただけで良しとしよう。

ところで、アンコールはシューベルトの「ロザムンデ」からアンダンテ。これがまた洒落た、哀感溢れる、想いのこもった演奏でとても良かった。

 

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