音、妄想、空想・・・

beethoven_5_furtwangler_1947.jpgエルーデ*サロンをさらに使いやすくするためにテレビ等のAV機器を撤去した。
そもそも日々の生活の中でテレビを観る習慣がないのでさして問題はないのだが、これまで食事の時はニュースを観たりしていた関係で、さてどうしたものかと思案した。そうか、じっくり音楽でも聴く機会にすればいいんだと当たり前のことを思いつき、BGM的にエルガーの交響曲第1番を流してみた。いやはやこれがまったくBGMにならない。こういう音楽はやっぱり正座をして真摯に向かい合い、そこそこの音量で聴くべきものなのだろう。エルガーが意図したわけではないにせよ、彼の音楽は王室の行事などの実用音楽として重用されていたわけだから、高尚な、我々庶民には及びもつかない高貴な波動が刷り込まれているのかもしれない(笑)。

かつて、テレビ草成期の頃、大宅壮一氏が唱えた「一億総白痴化」という言葉。そう、「テレビというメディアは非常に低俗なものであり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう(ウィキペディア)」という意味合いの言葉であるが、「白痴」という表現は言い過ぎにせよ、確かに人間の想像力は昔より随分落ちてしまったのではないか。先日、パーティーの幹事連中との懇親会でも、そこにたまたまTBSラジオのプロデューサーが居たものだから、話がラジオのことに及び、人間の想像力を掻き立てる面白い番組を今こそラジオが制作すべきだと議論になった。ラジオでしかできない興味深い番組。音だけで表現し、聴く者の想像力を彼方まで飛翔させるプログラム、そんなものがあれば必ず聴くのになぁ。いや、しかし「白痴化」した大衆は音だけの番組なんて受け付けないのかなぁ。聴衆の支持がなければ番組も成り立たないわけだからそれも難しかろう。まぁ、そういうリスクを背負ってでも人間の可能性、想像力を取り戻し、より飛躍させようという奇特なスポンサーでも見つかれば叶うことなのだろうけど・・・。

僕は音楽を「聴く」ことが好きだ。昔の、僕がまだ生まれる前の厳しくも衝撃的な演奏などは特に僕の感性を刺激する。もちろん映像が付随していればそれに越したことはないが、音だけを聴いて想像する、そういう「妄想」、「空想」が極めて面白いのだ。

ベートーヴェン:
・交響曲第5番ハ短調作品67「運命」
・劇音楽「エグモント」序曲作品84
1947.5.27Live、ベルリン、ティタニア・パラスト
・大フーガ変ロ長調作品133
1952.2.10Live、ベルリン、ティタニア・パラスト
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

僕の原点に在るといっても言い過ぎでない録音。高校生の頃ドイツ・グラモフォンのLP盤で初めて聴いて、「運命」交響曲の怖さを知らしめさせてくれた名盤。
もちろん「怖さ」だけでなく「凄さ」も「優しさ」も、そして「喜び」や「怒り」、「悲しみ」の感情をも教えてくれた録音なのである。この古い録音は、今聴いても決して古びない。それどころか、聴き始めるといまだについつい引き込まれて時間を忘れてしまう「魔法の力」をもつ。指揮者とオーケストラと聴衆がまさに喜びに溢れ、一体になったという歴史的記録。久しぶりに聴いても・・・、やっぱり素晴らしい・・・。

さて、準備は整ったようだ。
戦後、聴衆が待ち焦がれたヨーロッパ楽壇に復帰したフルトヴェングラーのように、これから皆様に楽しんでいただけるよう我々も一生懸命がんばろう。


3 COMMENTS

雅之

おはようございます。
おっしゃること、100パーセント同感です。
かつて大宅壮一氏が唱えた「一億総白痴化」、今だったら携帯電話も当てはまるでしょうか。
ところで昨日は、HMV渋谷が閉店してしまったのも寂しかったです。CDやLPを店頭で見つけて購入し、わくわくしてジャケットを眺めながら「想像」「妄想」して帰宅する・・・、そんな楽しみはネット購入にはありません。
テレビも携帯もネットも、ひとつ確実にいえることは、この社会の、経済優先で構築されたシステム全般(もう崩壊しかかっていますが)が、どんどん個人に、情報の送り手側の都合による画一的な価値観を押し付け、個人が社会システムの奴隷になることを強要させていることでしょうね(ネットだって、本当に知りたい情報は意外に入手できないものです)。
それは、スターリン体制下のソ連や、第二次世界大戦下の日本、現代の北朝鮮と、何ら変わらない全体主義の中に、知らず知らずのうちに個人が組み込まれているってことじゃないでしょうか。
未だに国民がネアカな「大本営発表」を信じるふりをしなければ生きていけない国、ナチスの支配を経験したフルトヴェングラーが今の日本が置かれた現状を知ったら、そう嘆くかも・・・。
ラジオにはテレビにない、もっともっとみんなが自由に発言できる場所であって欲しいのですが・・・、日本のラジオ番組では匿名のハガキやメールが読まれることが多いのも、私を暗い気分にさせます。
ブログで匿名が多いのも同じことですか・・・(このコメントも)。

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岡本 浩和

>雅之様
こんにちわ。
HMV渋谷店の閉店残念ですね。
しばらく行っておりませんでしたが、ここ最近は何ヶ月ぶりかに顔を出すたびにクラシック売り場が縮小され、お客もまばらで、という感じでしたから。
>CDやLPを店頭で見つけて購入し、わくわくしてジャケットを眺めながら「想像」「妄想」して帰宅する・・・
ああ、そのとおりです。特に昔、LPの時代はそうでした。電車の中でジャケ裏の解説などを読みながら、早く聴きたくて居ても立ってもいられないというあの感覚・・・、懐かしいです。
>どんどん個人に、情報の送り手側の都合による画一的な価値観を押し付け、個人が社会システムの奴隷になることを強要させていること
>ネットだって、本当に知りたい情報は意外に入手できないものです
>何ら変わらない全体主義の中に、知らず知らずのうちに個人が組み込まれているってこと
同感です。そう考えるとほんとうに恐ろしいことです。自分らしくあるために「想像力」というものを忘れないようにしたいものです。

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