魂は死なないことをモーツァルトは知っていたのだと思う。
「フィガロの結婚」から「ドン・ジョヴァンニ」に至る道程に父レオポルトの死がある。
遠く離れた息子が取り乱した形跡はあれど、手紙を見る限り、内心はとても冷静だったのではないか。そんなことを思った。
あの、有名な手紙を今一度引用しよう。
—たった今、私をひどく打ちのめすような知らせを聞きました。最近のお手紙から、ありがたいことに大層お元気だと推察できたばかりなのに、お父さんが本当に病気だと聞いたので、なおさらがっかりしました。安心のできるようなお知らせをお父さん自身からいただくのを、どんなに待ちこがれているか、申すまでもないことです。きっとそんなお便りが、いただけますね。もっとも私は、何ごとについてもいつも最悪のことを考えるのが習慣になっています。死は(厳密に考えて)われわれの一生の真の最終目標なのですから、私は数年この方、人間のこの真の最善の友ととても親しくなって、その姿が私にとってもう何の恐ろしいものでもなくなり、むしろ多くの安らぎと慰めを与えるものとなっています!そして、神さまが私に、死がわれわれの真の幸福の鍵だと知る機会を(私の申すことがお分かりになりますね)幸いにも恵んで下さったことを、ありがたいと思っています。私は、(まだこんなに若いのですが)もしかしたら明日はもうこの世にいないのではないかと、考えずに床につくことは一度もありません。それでいて、私を知っている人はだれ一人として、私が人との交際で、不機嫌だったり憂鬱だったりするなどと、言える人はないでしょう。そしてこの仕合せを私は毎日、私の創造主に感謝し、そしてそれが私の隣人の一人一人にも与えられるようにと心から願っています。
(1787年4月4日付、ザルツブルクの父宛)
~柴田治三郎編訳「モーツァルトの手紙(下)」(岩波文庫)P124-125
父ともどもフリーメイスンに通じていたであろうがゆえの、諦念とはまた違う、生も死もひとつだといわんばかりの悟りの境地。この頃に生み出された作品は、一層透明度を増し、彼が死を受け入れたがゆえの覚悟がそのまま音化されたような潔さを持つ。
この直後、1787年4月19日に完成された五重奏曲ハ長調K.515。セシル・アロノヴィッツを迎えて録音されたアマデウス四重奏団の演奏が、自然の流れに沿い、出過ぎず引き過ぎず中庸を獲得していて、ことのほか素晴らしい。第1楽章アレグロの、喜びの背景に垣間見える哲学的な歌。嗚呼、神々しさの極み。続く、第2楽章アンダンテは、ヴァイオリンとヴィオラの対話が美しく、何という温かさと柔らかさを秘めるのか。そして、第3楽章メヌエットは、死を受け入れる準備ができているとはいえ、一抹の悲しみ漂う内省的な舞踏。さらに、終楽章アレグロは、終わりのないいつまでも続くような息の長い音楽にモーツァルトの生きた証を思う。
モーツァルト:
・弦楽五重奏曲第4番ハ短調K.406(516b)(1968録音)
・弦楽五重奏曲第2番ハ長調K.515(1967録音)
・弦楽五重奏曲第5番ニ長調K.593(1968録音)
セシル・アロノヴィッツ(第2ヴィオラ)
アマデウス四重奏団
ノーバート・ブレイニン(第1ヴァイオリン)
ジークムント・ニッセル(第2ヴァイオリン)
ペーター・シドロフ(ヴィオラ)
マルティン・ロヴェット(チェロ)
一方、死のちょうど1年前に生み出された五重奏曲ニ長調は、この頃の経済的逼迫をものともしない純白さを獲得しており、とても人間技とは思えない神がかり的作品。第1楽章主部アレグロの前に置かれたラルゲットの序奏を聴けば、赤子の心を持つモーツァルトが作曲中は俗世間のことなどすっかり忘れ、音楽に没頭する様が想像できよう。そして、涙の第2楽章アダージョは、純朴な、簡潔な音楽の内側で荒れ狂う感情が手にとるようにわかる、アマデウス四重奏団ならではの隠れた(?)名演奏。第3楽章メヌエットは優しく、終楽章アレグロは、静謐な響きを維持しつつ、内なる疾風怒濤を感じさせる崇高な音楽。
来年の夏の終わりには、いとしい人よ、今度の旅路を一緒に回ろうね。きみの気晴らしにも、ぼくの健康にも、効き目があるだろう。
(1790年11月4日以前、妻コンスタンツェ宛)
~高橋英郎著「モーツァルトの手紙」(小学館)P434
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、確かにこの世に存在したのである。
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