ブーレーズのヴェーベルン

久しぶりに自転車で銀座まで足を延ばした。
皇居の周囲を走っていて、太腿あたりが一瞬冷たくなった。そういえば、未明から午前中にかけて猛烈な豪雨と雷だったっけ。嘘のように晴れ渡り、お蔭で気温も随分下がり、過ごしやすくなった街中の、まだ乾き切らぬ街路樹からポツリと水滴が落ちているんだった。
何だかここでも「自然」を感じた。
そして、何て気持ちの良い。
ただし、そうは言っても日中の日差しはまだまだ厳しい。
世間が秋色に染まるにはもう少し時間を要するのかな。
食欲の秋、スポーツの秋、秋にもいろいろ形容があるけれど、僕にとってはやっぱり芸術の秋、音楽の秋。今年も素敵なアーティストのコンサートが目白押し。あとは時間の問題。さて、どれくらい通えるのだろう・・・。

昨日は西洋古典音楽の究極大といえるマーラーの第8交響曲を繰り返し聴いた。そして、この音楽が作曲者自身の言葉で「太陽の運行の声」としながら、実に人間っぽい音楽だと痛感した。ただし、それはゲルギエフの指揮によるところが大きいのかも。未聴だけれど、ブーレーズの演奏を聴いてみたらもっと宇宙っぽい宇宙(無機的であるがゆえの有機性が感じられる)が眼前に拡がるのかも、そんなことを想像してみたりもする。

マーラー以後、シェーンベルクによって始められた十二音技法、無調という流れは音楽史の中でもちろん必然だったのだと思われる。ドビュッシーがモードに足を踏み入れたことも賞賛に値する画期的な出来事だが、新ウィーン楽派と呼ばれる先生方がブレイクスルーし、新しく始めたことも同様に革命的だ。中でも、アントン・ヴェーベルンの極限にまで切り詰められた世界を僕は大変に好む。初期のまだまだワーグナーの影響下にある作品においても既に彼の個性は明確で、方法を確立して以降のいわゆる「ミニマル」な世界は本当に聴いていて身震いするほど素敵。そして、ここでもピエール・ブーレーズの外面上怜悧で無機的でありながら、その実、熱き血潮の吹き出すような演奏が心を捕えて離さない。

ヴェーベルン:
・管弦楽のためのパッサカリア作品1
・5つの楽章作品5(弦楽合奏版)
・管弦楽のための6つの小品作品6
J.S.バッハ:管弦楽のための6声のフーガ(リチェルカータ)(ヴェーベルン編曲)
シューベルト:ドイツ舞曲D820(遺作)(ヴェーベルン編曲)
ヴェーベルン:牧歌「夏風の中で」
ピエール・ブーレーズ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

特にバッハ作品とシューベルト作品の編曲!
例えば「音楽の捧げもの」からの1曲である敬虔なバッハ作品が何と温かみのあるエロティックな(決していやらしい意味ではなく)音楽に変貌していることか。フリードリヒ大王の主題を基にバッハが見事なフーガを作曲、そしてそこに200年近くを経てヴェーベルンが化粧を施す・・・。素敵な三位一体。
そして、シューベルトのドイツ舞曲。先日も書いた、どうにもオルゴールのような可憐な原曲が大管弦楽を得て、大自然を描く音のパノラマと化すよう。嗚呼、うっとり・・・。


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