フルトヴェングラーの「田園」交響曲(SACDハイブリッド盤)

僕にとって長い間、ベートーヴェンと言えばフルトヴェングラー、フルトヴェングラーと言えばベートーヴェンだった。今でこそ執着はなくなったけれど、それでも時折耳にしたとき、演奏の細部まで、隅から隅まで熟知しているにもかかわらず新たな感動を覚える。ひょっとするとそれは単なる「刷り込み」に過ぎないかもしれない。だけれど、そこには「永遠」がある。すでに60年の時を経ているのだが、電気的に増幅された音の塊が時空を超え耳に届く時、過去と今とがまさに同化する。
フルトヴェングラーのベートーヴェンでは絶対的に第6交響曲である。あの桁違いに巨大な、ある人からすると「幽霊が出そうな」、別の人からすると決して「愉快でない」音楽を僕はことのほか好む。それゆえに現在では滅多に取り出すことはなくなった。何年かに一度、初めて出逢った時の「衝撃」を呼び覚ましたくなって棚から引っ張り出し、一期一会でそれに接する。そしてやっぱり感動する。クラシック音楽に遭遇したあの頃の記憶と今が見事にシンクロする瞬間だ。

当時はアナログ・レコードだった。EMIの輸入盤。例によってカセット・テープに録音して繰り返し聴いた。あれがまさにフルトヴェングラーとの出逢い。1979年のこと。

ベートーヴェン:
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1952.11.24&25録音)
・交響曲第8番ヘ長調作品93(1948.11.13Live)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団

アナログに始まり、EMI初期CDブライトクランク盤、などなど「音が良くなった」というふれこみがあるたびに性懲りもなく買った(賛否両論あろうが、実は不自然だけれどあの拡がりのあるブライトクランク盤も僕は好きで、その時の気分によって使い分ける)。最終的にはEMIの初期盤がもっとも優れているという結論に至り、リマスターと称するものに手を出すことはなくなったけれど、昨年生誕125年を記念して国内盤でリリースされたSACDハイブリッドディスクはどうしても我慢ならず手が伸びてしまった。比較してみて、現時点ではSACDに一日の長あり。音の芯が安定しており、地鳴りがするような響きと天から降るような想念が溶け合って、音楽と対峙している最中ほとんど金縛りに遭うよう。

1918年の「ベートーヴェンの音楽」と題するフルトヴェングラーの論文から。
決して、ただ、この嵐と疾風を孕み呼ぶ神が、同時にあの最も深遠、至幸の恵みにあふれた静寂、底知れぬ深淵の敬虔、かつて音となって語られたかぎりにおいて、最も無心に、至高の幸福をもって人を充たすハーモニーの創造者であっただけではありません。あの嵐のただ中、あの恐るべき感動のただ中においてすら、―なんという鋼鉄のような冷静と透徹、なんという仮借のない自己抑制への意志、あらゆる素材をその最後のどんづまりまで押しつめて形成せずにはおかぬ意志が支配していることか!なんという比類のない自己鍛冶であることか!

前にも書いたが、それにしても芳賀檀氏の訳はわかりにくい。
要はベートーヴェンの中には「すべて」があったとフルトヴェングラーは言いたいのだろう。特に、自然や宇宙を音化した「田園」交響曲においてそのことが最もわかりやすい。
フルトヴェングラーの「雷と嵐」には静寂があり、「牧歌、嵐のあとの喜びと感謝」には疾風が認識できるという理由から(あくまで僕個人の感覚で)。
コーダは深遠な祈りだ。最後の「祈り」をより至高のものにするためにフルトヴェングラーは第1楽章をあのテンポで演ったのではないのか。あれは「田舎に着いたときの愉快な気分」ではなく「田舎に着いたときの感謝の祈り」であると昔から僕は思っていた。
「感謝」に始まり「感謝」に終わる。それがベートーヴェンのパストラール・シンフォニー。


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