バッハ弾きブーニン

bach_recital_bunin.jpg雲ひとつない快晴で気持ちが良い一日。代官山でアポイントがあり、往復の地下鉄車中で読みかけの本を開くと、ことのほか集中でき、著者の言いたいことが冴え渡る頭に染み込む。「ダイアローグ~対立から共生へ、議論から対話へ」(デヴィッド・ボーム著)
人と人とがコミュニケートする時、全くの白紙状態で相手に対峙することは極めて難しい。相手の話を聴きながらも自分が次にする反論を考えていたり、全く別のことを考えてしまったりする。相手を打ち負かすのでなく、受け容れながら、自らの思考を「0(ゼロ)」の状態にして交流すること、すなわちそれが「対話」であるのだとこの著者も言いたいのだということがよくわかった。「著者も」と敢えて書いたのは、手前味噌ながら僕自身がこの1年ほどで体感を伴って感じ、考えていたこと、そしてセミナーや企業研修を通じて受講いただく皆さんにお伝えしたいと努力してきたことだからだ。すべてが「対話」で解決することはおそらくないのだろうが、問題解決の糸口としてはほぼ絶対的な価値をもつのではないかと思えてならない。

コンサートの時、舞台上で演奏者は一体何を考えているのか・・・?
作曲家が何を表現しようとし、その譜面に書かれている記号を頼りに、自らが何を表現、再創造できるのかを無心に考え、聴衆に伝えようと演奏するのか・・・。あるいは、自己顕示のための手段としての演奏であり、一種のパフォーマンスと捉えてステージ上で「踊る」のか・・・。大勢の聴衆を前にして緊張のあまり表現することを忘れ、音符を追うことに終始してしまうのか・・・。音楽もコミュニケーションであるゆえ、一体となり共に楽しむことが大前提となる。「音楽をする」ことも、同じく共生のための対話であると捉えることが自ずとできたら「名舞台」を体現できるのではなかろうか。
久しぶりにブーニンの弾くバッハのアルバムを立て続けに繰り返し聴き、そんなことを考えた。

バッハ・リサイタル
スタニスラフ・ブーニン(ピアノ)

第1曲目のケンプ編によるコラール前奏曲「我、汝を呼ぶ、主イエス・キリストよ」から祈りに満ちた天に響くような「無心」の表現。こんなにも澄んだ音楽は珍しい。ブーニンは1985年のショパン国際コンクールの覇者として追っかけが出るほど一世を風靡したピアニストだが、僕は彼をショパンよりもバッハの表現者として一目置いている。1990年に発売されるや何度も繰り返し聴き、そのたびに涙を誘われた至高の音楽がここにはある。ラストに収められている「主よ、人の望みの喜びよ」に至る60分間、どの瞬間も疎かにできない重みのある音盤なのである。ある時からブーニンの音楽に興味を失い、コンサートは愚かCDすら買わなくなってしまったのだが、この「バッハ・リサイタル」1枚でブーニンのピアニストとしての価値が未来永劫保障されているように僕には思えるのだ(大袈裟だが・・・)。

どうも最近バッハづいている。一日に1回はバッハの、それも名演奏といわれるものを必ずといっていいほど聴きたくなる。心が乾いているのか・・・(笑)。あるいは「癒し」を求めているのか・・・(笑)。

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