律儀で真面目で、決して嘘をつけず。この融通の利かなさが寿命を縮めたのだが、逆にあの完璧に計算された精緻な作品群を生み出すことができた原動力でもあった。バルトークのどの音楽にも知的好奇心がかき立てられる。
晩年の経済的困窮の原因は、戦時中という時代背景と白血病という不治の病との闘いによるものだが、運の良し悪しは横に置くにせよ、友人たちの献身的な協力心を素直にいただくことができなかった頑固さにもその要因があったのでは。
自分で生活費を稼ぎ始めて(20歳前後)以来、経験したことのない惨めな状況がまもなくやってくるでしょう。
1942年3月1日付、ウィルヘルミナ・クリールへの手紙
(ペーテル・バルトーク著「父・バルトーク」)P136
残念ながら、健康状態が思わしくありません。4月1日以来、毎朝決まって熱が上がります(37度8分ほど)。病院で高額な費用のかかる検査を6日間も受けたのに、医師たちは原因を見つけられません。
1942年5月30日付、レイフ・ホークスへの手紙
P136
快方に向かう見込みはなく、仕事も引き受けるなど論外です。
1843年6月28日付、ウィルヘルミナ・クリールへの手紙
P137
最悪の状況においても家計がどれだけ大変かを息子には一切話さなかったのだと。また、友人たちの秘密裏による様々な形の経済的援助も正面からは決して受け取らなかったらしい。クーセヴィツキー音楽財団からの委嘱によって生まれた「管弦楽のための協奏曲」についても、最初バルトークは健康上の問題を理由にその依頼を断った。しかし、真の目的は作曲家への経済的支援だったゆえ、何とかうまく理由をつけてクーセヴィツキーが押し込んだらしい。何とも涙ぐましい努力が周囲でなされていたことと、とにかく借りは作らないというバルトークの真面目さと頑固さの対比が今となっては面白おかしい。
それと、作品の印税が二重課税によって極端に減らされたという事実、それに対する行政の無慈悲な行為があったことを知り、バルトークの憤りに僕は思わずため息をついた。
それにしてもこの二重課税システムはとんでもない不平等だ。・・・イギリスでの収入800ドルに対してイギリスに50%、つまり400ドルを納め、しかもアメリカに25%、つまり合計75%だ。だが、もし私のここでの年収が1万8千ドルだったら(そんなことは幸いありえないが)、イギリスでの収入800ドルに対し、税金がイギリスは50%、アメリカが約53%だ。合計103%。馬鹿馬鹿しい。
1945年2月8日付、ペーテルへの手紙
P144
この年9月26日に彼は亡くなるのである。つまり、7ヶ月ほど前の息子への手紙に世間の不合理に対する怒りの本音が吐き出されているということ。しかし、一方で、当時海軍の二等兵だった息子の仕送り(給料の大部分)には一銭も手を付けていなかったこともペーテルによって語られる。
1945年8月に除隊した後、私はその全額が残っているのを知って愕然とした。・・・父が亡くなった時、預金残高のほとんどは私からの仕送りだった。
P145
若い時分から自立していた人が陥る罠のようなもの。家族と言えどプライドだろう、他人に面倒を看てもらうことができなかったということだ。
・バルトーク:2台のピアノとパーカッションのための協奏曲Sz.115
・コダーイ:ガランタ舞曲
ネルソン・フレイレ(ピアノ)
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)
ヤン・ラボルドゥス(パーカッション)
ヤン・プスティエンス(パーカッション)
デイヴィッド・ジンマン指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(1985.8.22-23録音)
バルトークの後年のピアノ作品の多くは、妻ディッタのために、あるいは彼女との協演のために書かれたもの。協奏曲はソナタの焼き直しだが、アルゲリッチとフレイレの丁々発止の火花散る協演が聴きもので、どの瞬間も一切の無駄がない。時に原始的な、人間のパルスに同調する音調あり、時に幽玄でメロディアスな旋律が歌われる。
「ガランタ舞曲」は理想的なテンポで進められ、バルトークの音楽とのコントラストの妙を味わえる。しかし、いずれの音楽に通底するのはマジャール魂、いわゆるロマ的な要素。
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