湯浅卓雄指揮アルスター管の山田耕筰「かちどきと平和」(2001.6録音)ほかを聴いて思ふ

それは大正元年であり、民国元年のことである。
時代が大きく、しかも180度変わるであろう転換点という意味では、世相は平成30年の今ととても近い。岩崎小弥太男爵の肝煎りで独逸は伯林に留学した山田耕筰が最初の交響曲を書いた年でもある。明朗快活、そして長大な日本初のその交響曲は「かちどきと平和」という標題を持つ。

当時の、山田のエピソードの数々が実に興味深い。

創作の面においてその年(1910年)は多幸であった。しかし、その多幸の創作の年を作ってくれたのは、恩師ヴォルフ教授の指導よろしきを得たからだ。1910年という一年は、ただ無我夢中で、コラァルと対位法に没頭した。・・・(中略)・・・第二年はあらゆる古典楽曲の一般に通ずるよう指導された。楽式の一切を勉強させられた。その間、フゥガはもとより、カノンの研究にも、厳格な訓練を受けた。先生は、極くわずかな音符の一つでも、決して忽せにされなかった。・・・(中略)・・・すると、ある日、先生は、
「ヤマダ!よく我慢した。これからは、何でもお前の好きなものを書いてもいい。でも、手始めとしてソナタを書くか」
といわれた。
それからはもう一切の軌道は取り除かれた。しかし、その頃、我々の憧憬の的であったリヒァルト・シトラゥスの行き方などが、少しでも私の筆に現われると、
「シトラゥス!立派だ!しかし、どうかな?もう少し、バハやモォツァルトを探る必要はないかな!新しい傾向を模倣するだけでは大成しない。あくまで、古典を学びとって、それを自己の血のなかに融かし込むことだ。そして、自己の本然の路をつくりあげるのだ。
モダニズムの衣裳は絢爛だ。が、その絢爛さも、模倣や借りものではすぐ剥げてしまう。自分で磨きあげた色合いでなけりゃ、真物とはいえない。
ヤマダ!焦るのはよく判る。青年だものねえ。しかし、焦らずに、自己の一歩一歩を踏み固めて登山する事だ。あまり頂上の輝きのみに心を奪われ過ぎると、思わぬ谷に落ち込んでしまう。判るかね」
山田耕筰「自伝 若き日の狂詩曲」(中公文庫)P193-195

良い師に恵まれ、基本から着々と、そして根気良く学んだ彼の、単なる模倣を見抜いて、独自のものを創造せしめんとガイドするヴォルフ教授の慧眼。
師のその言葉を胸に、その年の夏、避暑に訪れた漁村ディアハァゲンで見聞きした風景が、最初の交響曲の主題になったのだと山田は告白する。明朗さと美しさは、まさに自然と対峙したその体験から生まれたものだったのである。

山田耕筰:
・序曲ニ長調(1912)(2002.1録音)
湯浅卓雄指揮ニュージーランド交響楽団(2002.1録音)
・交響曲ヘ長調「かちどきと平和」(1912)(2001.6録音)
・交響詩「暗い扉」(1913)(2000.9録音)
・交響詩「曼陀羅の華」(1913)(2000.9録音)
湯浅卓雄指揮アルスター管弦楽団

第1楽章モデラート冒頭の主題は、確かに朝靄の田園風景を思わせる懐かしい音調。音楽は悠然と進んで行く。また、第2楽章アダージョ・ノン・タント・エ・ポコ・マルチアーレの爽快な歌。第3楽章スケルツォは、ショスタコーヴィチの映画音楽を髣髴とさせる諧謔的響き。そして、終楽章アダージョ・モルト—モルト・アレグロ・エ・トリオンファンテに映される闇の中の一条の光。山田耕筰の旋律は、わかりやすく崇高だ。

あるいは、暗澹たる、幾分前衛的な響きを持つ2つの交響詩。わずか1年の中での相違は一体何なのか?

その年のベルリンはロシャン・バレェでも賑わった。その公演はどうした訳か、ティアガルテンという公園にある、王立クロル歌劇場で行われた。
ニジンスキィにもカルサヴィイナにも息を奪われた。バァクストのデコォルにも眼を奪われた。が、はじめて耳にし得たドビュッスィの「牧神の午後」や、ストラヴィンスキィの作品に触れ得た喜びは大変なものだった。
「芸術家に固定は死だ。常に新しいものを追わなければ・・・」
幕合いに、斎藤はそんな事を独語していた。私は彼の肩をたたいて、
「だから、・・・今宵もまたお伴致すとしようか」
と揶揄したら、彼はふくれて横を向いてしまった。
観客席にいたリヒァルト・シトラゥスが、トォマス・ビィチャムの指揮にじいっと見入っていたのも、音楽学生としての私には印象的だった。
~同上書P222

山田耕筰が、類い稀な才能の持ち主だったとしても、才能を開花させるには20世紀初頭の芸術的刺激(デカダン)があったればこそ。ドビュッシーに触れ、ストラヴィンスキーに触れ、彼はニジンスキーの舞踊をその眼で見ているのだ。

怒涛の交響詩「暗い扉」の挑戦。音楽は、文字通り暗く、しかし浮遊する如く蠢くと思いきや、激しくうねる。作曲者本人はかく語る。

音詩「暗い扉」は何としても稚拙の誹りを免れぬ作品であろう。だが、今から38年前に、ああした楽曲がどうして書かれたであろうかと、作者の私ですら、ふしぎに思わずにいられないのである。わずか12分にも充たぬ曲ではあっても、それが四管編成に仕組まれているだけでも、われながら呆れずにおれないのである。
~同上書P275

そして、友人齋藤佳三の「死」を主題として書いた詩を音化した、交響詩「曼陀羅の華」の挑戦。先人スクリャービンの影響を受け、山田は「死」という神秘の世界を美しく、華麗に描いた。

音もなくゆれている波と、
音もなくゆれている光と、
互いに吐息しているような、そんな呼応が、軒端をめぐる雨だれのように、寄り合っています。
「曼陀羅の華」より
~同上書P276-277

山田耕筰の感性は確かだ。たぶん彼は、人を救うために生まれ、音楽を書いたのだと思う。

 

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