ワルター指揮コロンビア響 モーツァルト 歌劇「フィガロの結婚」K.492から序曲(1961.3録音)ほか

枯淡のモーツァルト。しかし、枯れているわけではない、浪漫豊かなモーツァルト。
ピリオド解釈全盛の現代にあって、古き良き時代の心を歌う、近代オーケストラのためのモーツァルト。ここにこそ普遍性がある。この優れた安定感こそブルーノ・ワルターの真骨頂であり、また、巨匠の音楽的遺言であるように僕は思う。

80歳のワルターがアルベルト・シュヴァイツァーに宛てた手紙。

なによりも私にだいじでありましたのは、世人が『フィーガロ』の作曲家をそうと思い込みがちな、ロココの「微笑する」音楽家像という俗見にたいして、モーツァルトの心意の高さを指摘することでしたが、これは創作の夙い時期から見られるもので、芸術に向かう彼の真剣さにも、同じく彼の音言語の気高さと天使のような晴れやかさにも、主題選択のなかにまで顕われておりました。彼の手紙の陽気な調子が、真実のモーツァルトを隠しえたことはいちどもありません。それは心からの(ただに教義上にとどまらぬ)彼の敬虔さであり、死との彼の近しさであって、最後には『アーヴェ・ヴェルム』に表わされて聞き取れる底のものなのです。さらに私が確信するところは、清澄を求めて努力するモーツァルトの魂を、シカネーダーのリブレットに引きつけたのが、火と水の試練—とはつまり秘儀伝授の神秘的な過程—だったことで、台本に彼が加えたさまざまな変更も、その点から理解されるわけです。
(1956年5月、アルベルト・シュヴァイツァー宛)
ロッテ・ワルター・リント編/土田修代訳「ブルーノ・ワルターの手紙」(白水社)P337

どこまでもモーツァルトの擁護者であったブルーノ・ワルターの、モーツァルトへの理解と愛情は底なしに深い。まさに巨匠はモーツァルトの魂と一体だったといえまいか。そしてまた、最晩年(亡くなる11ヶ月前!)の手紙をひもとくと次のようにある。

先週は、当地の優れた管弦楽団とともに、モーツァルト曲『フリーメーソンのための葬送音楽』をレコード録音しました。毎日死を思ったモーツァルトは、この崇高な作品において、彼の厳かな充実した境地に、こよなく高い表現を与えたのです。数年前のことでした。今は亡き尊敬する親愛な奥さまともども、貴下はベルンの演奏会に出席されましたが、その際この作品を私は演奏いたしました—きっと覚えておられましょう。先の管弦楽団と周到な仕事をして得られた最終結果は、この作品のほぼ完璧な演奏ともいうべく、デーリア・ラインハルトと私にとって—われわれは心こめて貴下を偲んでいました—敬愛する奥さまのための追悼式になりました。
われわれ両人は、これをお知らせすべきではないかと思いましたので、レコードを聞くのがお気に召しますれば—技術の進歩が音楽再生の驚くべき忠実度を可能にした現在のことゆえ—喜んで一枚お送りいたしましょう。ただし、レコードは半年ほどせぬとご利用いただけぬでしょう。その頃には、よい装置も整えておられると存じます。

(1961年3月18日付、アルベルト・シュテッフェン宛)
~同上書P366

ワルターのモーツァルトへの敬愛と同時に、録音技術の進歩に伴うレコード芸術という恩恵に与れる幸運が語られる。もはや、この最後の管弦楽曲集は、50年代の「ミラベル庭園」というレコードとは比較にならない透明感を獲得した人類の至宝だといえる。

ワルター指揮コロンビア響 モーツァルト アイネ・クライネ・ナハトムジークK.525ほか(1954.12録音)

モーツァルト:
・セレナーデト長調K.525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」(1958.12.17録音)
・歌劇「劇場支配人」K.486から序曲(1961.3.29-31録音)
・歌劇「コジ・ファン・トゥッテ」K.588から序曲(1961.3.29-31録音)
・歌劇「フィガロの結婚」K.492から序曲(1961.3.29-31録音)
・歌劇「魔笛」K.620から序曲(1961.3.29-31録音)
・フリーメーソンのための葬送音楽K.477(479a)(1961.3.8録音)
ブルーノ・ワルター指揮コロンビア交響楽団

確かに少し前の録音たる「アイネ・クライネ」にはいまだ「エゴ」が存在する(悪い意味ではない)。
しかし、「劇場支配人」から「葬送音楽」までの5曲にはそれがない。
これにてワルターのコロンビアへの録音は打ち止め。
(未聴の人には是非とも傾聴いただきたい、僕の座右の音盤)

室生犀星「抒情小曲集」から小景異情その二。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食となるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

福永武彦編「室生犀星詩集」(新潮文庫)P17-18

そして、その四

わが霊のなかより
緑もえいで
なにごとしなけれど
懺悔の涙せきあぐる
しづかに土を掘りいでて
ざんげの涙せきあぐる

~同上書P18

同じ文言でも表記を変える方法に、センスを思う。
まるでブルーノ・ワルターのモーツァルトに漂う空気と同じものだと僕には感じられる。
詩と音楽は根っこを同じにするのかもしれない。

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