ヤノフスキ指揮SKDのワーグナー「ワルキューレ」(1981.8録音)を聴いて思ふ

情報というものはそもそも発信者の主観。
その意味で、世の中に客観などというものは存在しないに等しい。
何事も自分の眼で、自分の耳で確かめる他なし。
40年近く前、マレク・ヤノフスキ指揮シュターツカペレ・ドレスデンの「指環」のリリース初めの頃、どちらかというと否定的な見解、評論が多かった。

—話題の「ワルキューレ」ですが、このレコードを初めて通してきいた人は、おそらく歌手の出来栄えに失望するのではないでしょうか。質問してよろしければ、ジェシー・ノーマンは彼女の豊かな成熟した声で本当に理想的なジークリンデを表現しているでしょうか。それに対して、よそでは素晴らしいジークリンデを歌っているジャニーヌ・アルトマイアがここではブリュンヒルデの役で契約しています。この役は彼女には荷が勝ちすぎているのではないですか。ジークフリート・イェルザレムのジークムントも、一般に言われている彼の限界がすぐに明らかになっています。

何と意地悪でネガティブな問いかけだろう。それに対し、ヤノフスキは次のように答えている。

音楽的な特徴という意味で、それぞれの演奏は出演している歌手に負うところが大です。現在出ているライヴ盤、またはスタジオ録音によるそれぞれの《リング》について、歌手を比較しなければなりませんが、決して一括した方法をとってはいけません。私はたとえばジークムントの役は絶対ヘルデン・テノールにのみふさわしい、というようなカテゴリー分けには反対しています。ジークフリートの場合はいくぶん違ってきます。“森のささやき”でしなやかさを出さねばなりませんが、この部分ですべてのヘルデン・テノールには問題があります。しかしまた、”鍛冶の歌“やブリュンヒルデを認める第三幕で、ドラマティックな感情の爆発をやってのけねばなりません。ジークムントの場合、勿論、”ヴェルぜ”を呼ぶところで合格しなければなりません。私の考えでは、”冬の嵐“の出だしの部分は全く正反対で、ここでジークムントにはリリックな声がふさわしいと思います。”死の予告“のはじめをみてみましょうか。ここも非常に抒情性がかかわりあっています。しかし、私がジークムントとジークリンデのペアをなにがなんでもリリックという概念で把握しようとしているのでは勿論ありませんし、それは恐らくあたっていないでしょう。この場合、さらに私はオーケストラのなかの分析的、対位法的な要素をいつも全音響のいわんとしている勢いに従属させています。オーケストラのアタックは失われてはならないのです。
(特別インタビュー マレク・ヤノフスキ、「ニーベルングの指環」を語る(きき手シュテファン・ミコライ))
~「レコード芸術」1983年1月号P38-39

残念ながら、当時10代の僕はこの情報を鵜呑みにした。ただし、ヤノフスキは歌手のキャスティングは自信をもって行ったという。ジークムントとジークリンデについては確かに高音域が欠けていると認めた上で、そのことがまたこの録音の魅力でもあるのだと、彼は断言するのである。

音を聴いてみて思う。指揮者の想定が正しいことがわかる。

・ワーグナー:楽劇「ワルキューレ」
ジェシー・ノーマン(ジークリンデ、ソプラノ)
ジークフリート・イェルザレム(ジークムント、テノール)
クルト・モル(フンディング、バス)
テオ・アダム(ヴォータン、バス・バリトン)
ジャニーヌ・アルトマイヤー(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
イヴォンヌ・ミントン(フリッカ、メゾソプラノ)
オルトルン・ヴェンケル(ヴァルトラウテ、メゾソプラノ)
ルース・ファルコン(ヘルムヴィーゲ、ソプラノ)
シェリル・ステューダー(オルトリンデ、ソプラノ)
エーファ・マリア・ブントシュー(ゲルヒルデ、ソプラノ)
アンネ・イェヴァン(シュヴェルトライテ、アルト)
クリステル・ボルヒャース(ジークルーネ、メゾソプラノ)
ウタ・プリエフ(ロスヴァイゼ、メゾソプラノ)
キャスリーン・クールマン(グリムゲルデ、アルト)
マレク・ヤノフスキ指揮シュターツカペレ・ドレスデン(1981.8.22-29録音)

音質は見事。
管弦楽の、どちらかというと軽く清澄な響きに対して、ノーマンやイェルザレムなど、歌手陣の重厚な歌が対比的な第1幕。ジェシー・ノーマンの低い声は、いかにもジークリンデの印象からはほど遠いが、その神々しさは他を冠絶する凄みに溢れる。第2幕第2場、ヴォータンがブリュンヒルデに秘密を明かすシーンのおどろおどろしく意味深な音作りこそヤノフスキの真骨頂。

あげくに地中の奥深く
大地の胎にもぐり、
愛の秘術で
エルダを物にして、
知恵の女神の誇りをくじき
いやおうなしに口を割らせた。
私は彼女に知恵を授かり
エルダは私の胤を宿した。
こうして、娘よ、
知恵の女神がお前を産んだのだ。
私はお前を引き取って
八人の姉妹とともに育てあげた。
お前たちヴァルキューレの働きにより
エルダが予言し
私を不安に陥れた禍いを
避けようとした—
汚辱にまみれたわれら神々の終末を。
日本ワーグナー協会監修/三光長治・高辻知義・三宅幸夫・山崎太郎編訳「ヴァルキューレ」(白水社)P63-65

汚辱というよりそれは欲以外の何ものでもなかろう。自ら幕を引いた神々の衣裳を着た俗物の最期は悲しい。そして、迎える第3幕終曲の(軽妙な?)美しさ。テオ・アダムの歌唱がものを言う。

今生の別れに、もういちど
私の願いをかなえておくれ、
これが最後のくちづけだ。
瞳の星は私よりも
幸多き男に輝くがよい。
幸多き神は
別れにあたって、その眼を閉ざそう。
こうして神は
娘と別れる、
くちづけをもて、お前の神性を奪うのだ!
~同上書P141

35年を経過して、マレク・ヤノフスキの「ワルキューレ」を、僕は正しく評価したい。
「魔の炎の音楽」が何とも切ない。

 

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