アントン・ブルックナーの自意識過剰。その改訂癖、ロリータ・コンプレックス。
自分を異常に愛していない限り後世に残り得る仕事はできないはず。芸術の真髄とは「我(エゴ)」なのかもと、彼の手紙の一節を読んで思った。
口にこそ出さないものの私が辛抱づよくあなたに想いを抱いてきたことをあなたが気づいていらっしゃることを信じて、ここにペンを執ってあなたをお悩ませする手紙を書くことにしました。
私が思い切って、ヨゼフィーネ嬢、あなたの前に差し出そうとしている、最大の、そして切なるお願いとは、私の質問に対して、私のこれからの心の平安のために、率直で最終的な、本当に決定的なお返事をいただきたいということなのです。
(1866年、ヨゼフィーネ・ラング宛)
~「音楽の手帖ブルックナー」(青土社)P53
何と何十歳も年下の教え子への結婚の申し込みなのである。あの崇高な、聖なる交響曲をいくつも生み出した天才とは思えない俗物性。陰陽、表裏。やっぱりこの世は二元で成り立っている。ブルックナーのような自意識が他の追随を許さない飛び抜けた傑作を創出する源泉なのだとあらためて思った。
一方で、異常なまでの謙遜、とういうか遠慮。そう、ブルックナーは自信がなかった。
生れたばかりの私の子供(=交響曲第7番)が最高のドイツ人指揮者によって披露されるということになれば、その嬉しさたるや計り知れません。今から胸が躍る思いです。
(1884年1月11日付、アルトゥール・ニキシュ宛)
~同上書P57
まるで子どものような無邪気さ。
そう、我らが限りなく敬愛する巨匠(ワーグナー)のための葬送音楽を持つ「アダージョ」をよく読み、左記のチューバを用いてあたかもそれが君自身の作曲であるかのように指揮して欲しいのです。君がこれに情熱をかき立ててくれれば、君は広くその名を知られた指揮者なので、正にうってつけだ。
(1885年4月17日付、フェリックス・モットル宛)
~同上書P58
ブルックナーの愛する第7交響曲アダージョの最高の解釈者は朝比奈隆だと僕は信じている。幾度も耳にした実演、そして繰り返し聴いた幾種もの録音の何ものにも代え難い素晴らしさは、その死から10数年経ようとも不滅。
・ブルックナー:交響曲第7番ホ長調(ハース版)
朝比奈隆指揮東京都交響楽団(1997.10.24Live)
死の年の、同じく都響との演奏とはまた違った意味で最高の第7番。
音盤の帯のキャッチコピー「人類共通の至宝」そのもの。おそらく晩年でありながら全盛期の、朝比奈芸術の真骨頂。実際にサントリーホールで聴いた、あの時の光景が見事に蘇る。
特にアダージョ楽章冒頭の、言葉に表し難い哀しみ。そして、美しい第2主題の疾走する悦び。コーダの前のハース版特有の打楽器なしの頂点に感無量。
そして、ワーグナー追悼のワーグナー・チューバの慟哭。どこをどう切り取ってもこれ以上のブルックナーは存在しない。
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