チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィル チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」(1992.11Live)

チェリビダッケのコンサートはどれもが、うんざりするほど過剰に提供されているものやマンネリ化したベストセラー的なものに対する攻撃である、しかも聞き耳を立てての。チェリビダッケとミュンヘン・フィルの同盟(逆もしかり)は、大儲けの国際的音楽ビジネスや音楽のファースト・フード化の時代において、希少価値ある珍品となっている。
クラウス・ウムバッハ/齋藤純一郎/カールステン・井口俊子訳「異端のマエストロ チェリビダッケ—伝記的ルポルタージュ」(音楽之友社)P259-260

思わず拝跪したくなるほど幻のようなあまりに巨大な音の大伽藍。
しかし、これは幻想ではなく、現実だった。チャイコフスキーの慟哭が、そして生への希望が知的に響く様に僕は感動する。やはりチェリビダッケはライヴの人だ。たった一度きりの再生であるがゆえにもたらされる感動。彼が実演にこだわったことが痛いほどわかる。

ガスタイクの内と外であらゆるあら探しが行われるにもかかわらず、ミュンヘンはチェリビダッケの輝かしい経歴の掉尾を飾る街となる。当地の聴衆の愛情は(自然に)老指揮者の途方もない(演奏時間の)長さと指揮への熱情に対する畏敬から生まれたものである。かつて音楽的な見事なピポットターンをはじめ、数々の諸芸を披露した元気一杯の若者に対しベルリン市民が思わず喝采を送った、あの頃の愛情とは異なる。彼の思うままに反応してくれるオーケストラ。彼の奔放さ、取りつく島もない言動、あるいは彼の要求にもうまく対応し、素晴らしい成長を遂げて世界的な名声を馳せることになるオーケストラ。このようなオーケストラを持つのはチェリビダッケにとっても初めてのこと。長年の願望がかなう。ミュンヘン・フィルは彼の生涯の夢をかなえてくれるオーケストラ。
~同上書P236-237

第1楽章アダージョ—アレグロ・ノン・トロッポは何と25分12秒の奇蹟。泰然自若とした時間の流れに身を委ねると、まるで瞑想中の「空(くう)」の中にあるかのような錯覚を覚えるくらい。

・チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調作品74「悲愴」
セルジュ・チェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団(1992.11Live)

第2楽章アレグロ・コン・グラツィアの心地良いテンポに、「悲愴」はこうでなくてはならぬと膝を叩く。何という優雅さ。そして、第3楽章アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェは、あまりに重厚な流れにヴィヴァーチェとはいえなくなっているが、それでも内から沸き立つパッションが、特にティンパニの怒号、あるいは金管の咆哮から伝わってくる。白眉は何と言っても終楽章アダージョ・ラメントーソ。老巨匠は祈る。こんなにも美しくも迫真の主題が他にあろうか。

作曲者自身が「すべての魂をかけた」と語る深沈たる趣きの交響曲が、命がけの(?)演奏で再生される。

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