クレメンス・クラウス指揮バイロイト祝祭管の「神々の黄昏」(1953.8.12Live)を聴いて思ふ

リヒャルトはいくらかよく眠れた。
(1872年5月26日日曜日)
三光長治・池上純一・池上弘子訳「コジマの日記3」(東海大学出版会)P232

リヒャルトは五時間しか眠れず、ひどく消耗していたが、今後の計画を練る。
(1872年5月27日月曜日)
~同上書P232

リヒャルトにはまだ平穏が訪れない。安眠できず、いろいろなことで消耗している。
(1872年5月29日水曜日)
~同上書P234

リヒャルトはひどい夜をすごした。
(1872年6月6日木曜日)
~同上書P245

「神々の黄昏」完成途上の苦悩はいかばかりだったか。
世俗の、どうでも良いような出来事が身の回りに多発し、才能を煩わす。

リヒャルトは《神々の黄昏》から〈ハーゲンの呼集〉と〈ラインの乙女たちの歌〉を弾いて聞かせた。(彼は仕事をした)。
(1872年7月6日土曜日)
~同上書P287

遅々として進まず、「神々の黄昏」がようやく日の目を見たときの達成感と脱力感。
音楽はうねり、弾け、あるいは沈潜し、魔法の如く人々の心を鷲づかみにした。

ハンス・クナッパーツブッシュのいわば代理登板となったクレメンス・クラウスの、気合いの入った、気持ちのこもった「指環」ツィクルスは、とても自然体かつ流麗な音楽作りで美しい。悠揚な構えというより、本当に流れが良く、名歌手たちの優れた歌唱にも支えられ、ワーグナーの荘厳壮大な世界を瑞々しく描き出す。

1953年のバイロイトは特別だ。

・ワーグナー:楽劇「神々の黄昏」
アストリッド・ヴァルナイ(ブリュンヒルデ、ソプラノ)
ヴォルフガング・ヴィントガッセン(ジークフリート、テノール)
ヘルマン・ウーデ(グンター、バス・バリトン)
ヨーゼフ・グラインドル(ハーゲン、バス)
ナタリー・ヒンシュ=グレンダール(グートルーネ、メゾソプラノ)
グスタフ・ナイトリンガー(アルベリヒ、バリトン)
イーラ・マラニウク(ヴァルトラウテ&第2のノルン、ソプラノ)
マリア・フォン・イロスファイ(第1のノルン、コントラルト)
レジーナ・レズニック(第3のノルン、メゾソプラノ)
エリカ・ツィンマーマン(ヴォークリンデ、ソプラノ)
ヘティ・プリマッハー(ヴェルグンデ、メゾソプラノ)
ギゼラ・リッツ(フロースヒルデ、アルト)
バイロイト祝祭合唱団
クレメンス・クラウス指揮バイロイト祝祭管弦楽団(1953.8.12Live)

全体を通して心地良いスピード感が、ワーグナーの小難しい楽劇をより身近なものにする。
第3幕を集中的に聴く。「ジークフリートの葬送行進曲」頂点の金管の鋭くも柔らかい音色に感動。そして、「ブリュンヒルデの自己犠牲」におけるアストリッド・ヴァルナイの深みのある勇敢な、それでいて悲しい歌唱が、オーケストラの崇高な音響と交錯し、神々の没落を見事に描き出す。何より(ヨーゼフ・グラインドルが「指環から離れろ!」と絞り出す後の)最後の管弦楽による、(生への歓呼、ワルハラ、愛の救済)3つの動機の重なり合う問答無用のシーンの圧巻。

クラウスの急逝により翌年以降のバイロイトにクナッパーツブッシュが戻ることになったのだが、もし彼がもう少し生き長らえていたら、どんなワーグナーを聴かせてくれたのだろう?クナッパーツブッシュの「指環」や「パルジファル」を享受できなかったことを考えると結果的にはそれで良かったと思うのだが、実に気になるところ。
人間の運命とはわからぬもの。

リヒャルトは《神々の黄昏》を「神々の審判」と呼ぶことを思いついた。「神々の黄昏Ragnä Rökr」という言葉は神々の審判を意味するということを最近の文献で読んだからだ。「〈神々の黄昏〉はとても美しい。秘密めいた響きがする。ただ、それが疑問の余地もなく言葉の意味を言い当てているとすればの話である。もしも疑わしいということになれば、精確さに欠ける表現ということになろう。それに、ブリュンヒルデが神々を裁くわけだから、〈神々の審判〉というのはとてもよい」
(1872年8月3日土曜日)
~同上書P319

 

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