フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管のベートーヴェン第9番(1951.7.29Live)を聴いて思ふ

死がすべての終わりなのかといえば決してそうではない。身体は有限だが、魂は無限。身体が滅びたところで罪は拭い去れるものではない。それゆえに懺悔が必須なのである。

われわれは特にこの音楽の、バッハからベートーヴェンに至り、ベートーヴェンからヴァーグナーに至るその力強い日輪の歩みをば理解しなければならない。
塩屋竹男訳「ニーチェ全集2 悲劇の誕生」(ちくま学芸文庫)P163

人類は、おそらく「宗教」という枠を超えなければならないのだと思う。
フリードリヒ・ニーチェは一体どんな夢を見ていたのだろう?

バッハは、プロテスタントという信仰の中で勤勉に生きた。ベートーヴェンはインド哲学(「ウパニシャッド」、あるいは「バガバッド・ギーター」)にはまり、いわゆる宗教を超えようと試みた(いや、結果的には超えたのかもしれぬ)。

無限な静寂の翳、まだ精霊どもの息吹も漂わぬ、つらぬき難く、達しがたく、測知しがたくひろがっている繁みの厚い暗がりに包まれてただ自分の霊だけがあった—あたかも、(無限性に有限なる性を比べてみるために)やがて滅びるべき運命を持つ者の眼が、明るい鏡に見入るかのように・・・(1815年)
ロマン・ロラン著/片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)P172

ちなみに、ワーグナーは「パルジファル」により一見超えたように思えるが、残念ながら彼はあまりに俗物だった(よって、たぶん超えられていないだろう)。

バッハ(とヴィヴァルディ)の命日の翌日に、ワーグナーの聖地で繰り広げられた(アポロン的またディオニュソス的)ベートーヴェンの第九は、21世紀の今も不滅だ(それにしても何という縁!)。

・ベートーヴェン:交響曲第9番ニ短調作品125「合唱」
エリーザベト・シュヴァルツコップ(ソプラノ)
エリーザベト・ヘンゲン(アルト)
ハンス・ホップ(テノール)
オットー・エーデルマン(バス)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮バイロイト祝祭管弦楽団&合唱団(1951.7.29Live)

もはや言葉で説明不要の名演奏の名盤。今となっては珍しいブライトクランク盤を取り出して聴いた。たとえ疑似的であれ、音の広がりが確保される意味においてこの盤は不滅であると僕は思う。久しぶりに聴くブライトクランクのバイロイト第九は身震いするほど素晴らしかった。

30年が経った。必要に迫られて部分的に聴く事はあったが、あの感動が薄れるのが怖くて全曲を聴くことは避けてきたから、今度この稿のために意を決して聴いたのだが、改めて素晴らしい演奏だと思った。と同時に、いままで漠然と憧れていただけのこの演奏の本質がはっきりしたように感じた。「第九」におけるフルトヴェングラーの凄さとはなんなのだろうかという問いに答えが見つかったのだ。
それは、この演奏の外観、即ちテンポやアゴーギク、ダイナミックスから聴き取ることのできる指揮者のメッセージにのみ捉われてはならないということだった。
保延裕史「奇跡的にもフルトヴェングラーの理想が達成された演奏」
~「音楽現代」2007年12月号(芸術現代社)P82

内面を見よ、魂を見るのだとフルトヴェングラーが語りかけるよう。壮絶で意味深い第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ、ウン・ポコ・マエストーソの奇蹟、第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレのこれ以上考えられない神の声。すべてが奇跡に包まれる。

 

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