昇天の音楽。
彼の音楽には、微かな記憶を喚起する懐かしさがある。
あまりに繊細で、あまりに美しく。あの何とも表現し難い「不安定さ」が堪らない。
私は自分の竹馬もすでに足の下で非常に高く成長していると考えて慄然とした。もうこんんなに遠くまで下っているこの過去を、そういつまでも自分につなぎとめておく力があろうとは思われない。だから、もし作品を完成できるくらいに、長いあいだその力が私に残されていたら、かならずや私はまずその作品に、たとえそれが人間を怪物のような存在にしようとも、途方もなく大きな一つの場所を占めるものとして彼らを描くことになるだろう。空間のなかで人間にわりあてられた場所はごく狭いものだが、人間はまた歳月のなかにはまりこんだ巨人族のようなもので、同時にさまざまな時期にふれており、彼らの生きてきたそれらの時期は互いにかけ離れていて、そのあいだに多くの日々が入りこんでいるのだから、人間の占める場所は反対にどこまでも際限なく伸びているのだ—〈時〉のなかに。
~マルセル・プルースト/鈴木道彦訳「失われた時を求めて13」第7篇「見出された時Ⅱ」(集英社文庫ヘリテージシリーズ)P280-281
自由詩のようなクロード・ドビュッシーの音楽。
雲をつかむような、とりとめのない、しかし、力のある音調は、どの瞬間も何と神秘的なことだろう。灼熱を冷ます夢の如くの音世界。
けれども、これとともにアニムス(魂)が存在する。その中には精神がかくされている。アニムスは、昼間は両眼の中におり、夜は肝臓の中に住んでいる。それは、両眼の中にいるときは外物を見るのであるが、肝臓の中に住むときには夢みるのである。夢とはたましいがさまようことであって、九天と九地をめぐる旅もたちまちのうちに行われる。
~C.G.ユング・R.ヴィルヘルム/湯浅泰雄・定方昭夫訳「黄金の華の秘密」(人文書院)P159
陽なるパワーを秘める最晩年のクロード・ドビュッシー。実に太陽の光そのものであるが、僕たちが捉えるのはその翳の部分だと言えまいか。
ドビュッシー:
・神聖な舞曲と世俗的な舞曲(1904)
・フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ(1915)
・チェロとピアノのためのソナタ(1915)
・ヴァイオリンとピアノのためのソナタ(1916-17)
リリー・ラスキーヌ(ハープ)
ジャン=ピエール・ランパル(フルート)
ピエール・パスキエ(ヴィオラ)
ポール・トルトゥリエ(チェロ)
シャルル・シルーニック(ヴァイオリン)
ジャン・ユボー(ピアノ)
ジャン=ピエール・ランパル指揮パイヤール室内管弦楽団(1962.7録音)
エンマ・バルダックとの許されざる愛の炎が内側に燃えるハープと弦楽合奏の絡み。聖も俗も受け入れ、一体となる様を表す音楽の憂い。ラスキーヌのハープの奏でる妙なる調べに感無量。
また、フルート、ヴィオラとハープのためのソナタ第1楽章パストラールの透明感、あるいは第2楽章間奏曲の喜び。終楽章アレグロ・モデラート・マ・リソルートにあるストラヴィンスキーのような土俗性。いずれもが何て斬新なのだろう。
トルトゥリエのチェロが泣く。
第1楽章プロローグの哀愁、第2楽章セレナードの幽玄、アタッカで続く終楽章のオリエンタルな主題に金縛り。全曲が10分超で駆け抜ける。
さらに、最後の作品となったヴァイオリン・ソナタは、とりわけ終楽章が素晴らしい。不思議に生きる力に漲るから。
長いあいだ、私は早く寝るのだった。ときには、蝋燭を消すとたちまち目がふさがり、「ああ、眠るんだな」と考える暇さえないこともあった。しかも30分ほどすると、もうそろそろ眠らなければという思いで目がさめる。私はまだ手にしているつもりの本をおき、明りを吹き消そうとする。眠りながらも、たったいま読んだことについて考えつづけていたのだ。ただしその考えは少々特殊なものになりかわっている。自分自身が、本に出てきたもの、つまり教会や、四重奏曲や、フランソワ一世とカルル五世の抗争であるような気がしてしまうのだ。こうした気持は、目がさめてからも数秒のあいだつづいている。それは私の理性に反するものではないけれども、まるで鱗のように目の上にかぶさり、蝋燭がもう消えているということも忘れさせてしまう。ついでそれはわけのわからないものになりはじめる—転生のあとでは前世で考えたことが分からなくなるように。
~マルセル・プルースト/鈴木道彦訳「失われた時を求めて1」第1篇「スワン家の方へⅠ」(集英社文庫ヘリテージシリーズ)P29-30
夢か現か。
ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。